じみたの歴史

1985~1986年(19歳~20歳)
大学2年目

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1985年4月~1986年3月
☆病院のバイト

1985年4月
☆理科大ジャズ研で花見
「出てきた曲は?」

1985年5月
☆最初から決まっていた後輩のあだ名
「『$子』『Roa子』…『Payapa』って?」

1985年?月
☆パトカーに乗る
「私は大丈夫でした」

1985年5月
☆楽器置き場から楽器が盗まれる

1985年6月1日(土)
☆理科大ジャズ研の新歓コンパ
「これぐらいやったっていいでしょう」

1985年4月~6月
☆居酒屋「駒安」でのバイト
<手荒れ>
<飯田橋での最後の駒安>

1985年?月
☆じみた、「寅さん」で映画俳優になる!
「寅さんの映画に出演!」

1985年8月
☆理科大ジャズ研の夏合宿
<後輩、$子は強かった……>
<体に止まったコガネ虫、さてどうする?>

1985年10月?
☆私の名前は「クポキョン・キョロタ」

1985年10月?
☆居酒屋「駒安」の分店、もんじゃ焼き屋の手伝い

1985年11月3日(日)
☆理科大ジャズ研のコンサート
<渋谷 エピキュラス>
「じみたⅡ」
苅田(ts) じみた(p) 初田(eb) 蓑下(ds)

1985年11月17日(日)
☆東京女子大の学祭に出演
「インスタントラーメン」
望月(key) じみた(p) 浅田(b) 蓑下(ds)

1985年11月21日(木)~24日(日)
☆理科大の学祭「あけみ」
「じみたⅡ」
苅田(ts) じみた(p) 初田(eb) 蓑下(ds)

<東工大のレギュラーバンドが来る>

198?年
☆アルトの井野川康治さんが亡くなる

1985年11月30日(土)
☆理科大ジャズ研外でD年養成バンド開始
<セントラルプラザ内 スタジオ>

1985年12月14日(土)、15日(日)
☆ライブ鑑賞 2日連続
<新宿 ピットイン>
「板さんにハマってしまう」

14日(土)
「板橋文夫 セッション」
大友義雄(as) 榎本秀一(ts) 向井滋春(tb) 板橋文夫(p) 川端民生(b) 古澤良治郎(ds)

15日(日)
「板橋文夫 クインテット」
梅津和時(as, bcl) 板橋文夫(p) 廣木光一(g) 吉野弘志(b) 小山彰太(ds)

1985年12月21日(土)
☆理科大ジャズ研外のバンド、STAMNのパーティ

1985年12月~1986年1月
☆仕事をするはずだった店

1986年2月4日(土)
☆理科大ジャズ研外で先輩の戸井さんのバンドに参加
「戸井バンド」
谷川(ts) じみた(p) 戸井(b) 西川亨(ds)
※戸井バンド開始

1986年2月?
☆炊飯器ですき焼き

1986年3月
☆理科大ジャズ研でCPを買う

1986年3月16日(日)~23日(日) → 24日(月)
☆理科大ジャズ研の春合宿
「大雪で帰れなくなる」




1985年4月~1986年3月
☆病院のバイト

 大学1年目の所でも書いていますが、私は1年生で早くも留年してしまいました。それも単位を落としたのは外国語だけです。2年目が暇になるのは明らかです。

 ある知人の義理の兄弟が医者をやっていて、私はその病院でアルバイトをする事になりました。週に1回、1年間です。内容はパソコンでカルテ内容を入力するという簡単なものでした。個人病院で開院したばかりでした。1年間お世話になりました。


1985年4月
☆理科大ジャズ研で花見
「出てきた曲は?」

 理科大ジャズ研で花見をしました。場所は理科大の近くの北の丸公園、皇居の近くです。

 音楽関係者の野外での飲み会は楽器を持って行く事もあります。この日は先輩のKR田さんがテナーを持って行きました。

 しばらく飲んだ後、楽器をセッティングし始めました。いよいよです。待ってました!

  マイムマイム

  ?!

な、なんちゅう曲を?!それは小学生のダンスではないですか。いや、まあそれなら出来ます。うん、確かに出来ます。

  自分で吹いて踊れるマイムマイム

踊れます。サックスでマイムマイムを吹きながら踊っています……

 これは大爆笑でした。


1985年5月
☆最初から決まっていた後輩のあだ名
「『$子』『Roa子』…『Payapa』って?」

 理科大ジャズ研でいよいよ後輩が入って来ます。私の代は全部で8人で全員「男」です。みんなでテキトーな事を言っています。

  「今年は女が入って来るかなあ?」
  「入って来たらどうする?」
  「変な名前、付けちゃおうか?」
  「ミュージシャンの名前モジったら?」
  「例えばアルトだったら?」
  「うーん、エリック・ドル子とか。」
  「ドラムだったら?」
  「マックス・ロー子とかどう?」
  「ピアノだったら?」
  「セロニアス・モン子とか。」
  「モン子?それはヤバいんじゃない?」

そう、あなたたちの名前は最初から決まっていたのです。それに世の中上手く出来ています。前年は1人も女性が入らなかったというのに、見事に女性が入るではないですか。

 めでたく(?) アルトの1年生は「ドル子」に、ドラムの1年生は「ロー子」に命名されました。「ドル子」……「$子」でいいです。「ロー子」は……Roa子でいいです。

 その後です。私の1つ上の先輩のピアノのMC主さん(現:HR瀬さん)は大学が東京女子大学で、後輩の女の子がピアノで入部する事になりました。ピアノです。でも「モン子」じゃちょっと……

 入部しました。部室で1人で歌っております。

  「パヤパヤパヤ~、パヤパヤ~……」

あなたは今日から「Payapa」です。

 私の1つ下の後輩の女性3人、すべて片づきました。


1985年?月
☆パトカーに乗る
「私は大丈夫でした」

 若い時は酒を飲むとモノを盗みたくなるものです。私の近くに住んでいた先輩のアパートにもありました。工事現場でグルグル回っている黄色のランプ。そんなもの、いつ盗んで来たんでしょうか?先輩に聞くと、それどころか、

  「昔、公衆電話を盗んだんだけどねぇ。」

は?公衆電話?

  「持っててもしょうがないから
   捨てちゃった。」

盗むのも大変だと思うのですが、どこに捨てたんでしょうか?ザブトン30枚です。

 今だから言えます。私も色々やりました(^^;)

 その1。同じようなグルグル回っている赤いランプ。パトカーの上に付いているような感じのものです。ある店の外に置いてあった看板の上に付いていました。店が目立つように付けたんでしょうかねぇ……引きちぎってしまいました。その後いつだったか……また目立つようになっていました(^^;)

 その2。居酒屋の看板で周りに黄色い電球が沢山付いている派手なやつ。この電球は横の隙間から手を入れて回せば取れるんですねぇ……しかも無くなると自動的に補給されます。何回でもOK……私の趣味でした(^^;)

 その3。居酒屋の灰皿はよく盗まれますよね。これでは普通です。私はジョッキでした。カバンに入れてお持ち帰りです(^^;)

 その4。ジャズ研先輩のKR田さんとSZ木さんと私の3人で何かの帰りで早朝、地下鉄に乗った時です。早朝なので乗客はほとんどいません。ドアの上には駅名がずらっと書いてある厚紙で出来ている駅名案内が貼ってあります。それを先輩たちが、

  「飾りにいいじゃん。」

引きちぎります。「飾れよ」と私へ。

  東西線 駅名案内

私の部屋のポスターになりました。おお、こんなポスターはめったにない。

  「なかなかいいじゃん。」

私も私です。後日、私1人で早朝地下鉄に乗った時、「今なら大丈夫!」。

  有楽町線 駅名案内

ポスターにしました(^^;)

 他にもあったかもしれません。どうしようもないです、じみたってやつは。。。(^^;)

 さて、この日も理科大ジャズ研の人たちで飲んでいました。飲み会が終わって解散後、店の近くにいるのは、先輩のKR田さんとKD谷さん、私と同期のH田、 私の4人です。KD谷さんは私と同じく大学から近くのアパートに住んでいたので帰れます。KR田さんとH田はうちに泊まる事になりました。

 4人で歩き、大学の横の神楽坂通りに出ました。今日は盗みモードの日です。何か持って帰りたい……

 電柱には何かノボリのような物がぶら下がっています。先輩はやりません。後輩に「やれ」というだけです。まずこれをH田が失敬……。同じように別の電柱には「神楽坂商店街火災予防運動」とか書いてある白いビニール製のノボリのような物がぶら下がっています。これを私は失敬……。誰かに見つかってはマズいので、丸めて着ていたジャンパーの中へ隠します。私はお腹の上にこれがあるので少し腹が出っ張って見えますが、まあ多分大丈夫。商店街を上って行きます。深夜なので店はほとんど閉まっています。

 途中、ある店の入口の天井に付いている鏡を発見。店員が店内から外が見えるように設置した凸型の鏡です。うーん、いい感じです。これ、欲しいです。H田がやる事に。でも天井なので背伸びしても届きません。ジャンプ……まだ取れません。ジャンプ……

  「ガチャン!!」

あーっ!何と!割れてしまいました。これはマズい!急いで逃げます。割れた時、私以外の3人は割れた破片が飛び散った場所より坂の上、私だけが坂の下にいました。3人は坂の上へ逃げます。私も一緒に逃げたいのですが私だけ坂の下にいて、破片が飛び散っていて、まだパラパラ落ちてきているので、下へ逃げます……

 ちょうどその時です。なんという「グッド」タイミングなんでしょうか。パトカーが横に止まるではないですか。

  「そんなバカな……」

警察官は速いです。数秒後、もう私は捕まっています。

  「誰?割ったのは?」

上へ逃げた3人ももう無駄です。戻って来ました。誰が割ったか?本当は全員の責任ですが、正確に「誰が」割ったかというと確かにH田です。仕方なく、

  「すいません、私です。」

ああ、終わりです。もし私がやっていたら私が捕まっていたはずです。運が悪いというか……後から先輩2人に、

  「おまえがちゃんと逃げてたら
   大丈夫だったんだよ。」
  「こっちは酒飲んでるんだから
   逃げ足も速ぇーんだから。」

いえ、それは割れた場所と私の位置から考えて無理な話だし、逃げたって無駄だったに違いないです。割れて10秒も経たないのに捕まっちゃったんだから。

 H田はパトカーに乗せられ、警察官たちから質問攻めです。何という事……

 しばらく経ってから警察官の1人が私たちに言いました。

  「今から牛込警察署に行きます。」
  「誰か保護者としてもう1人
   付いて来てください。」

何だ、保護者ってのは?まあただの付き添い人だろう。残っているのは先輩2人と私。私の住んでいたアパートは牛込警察署の近く。

  「じみた、行けよ。」

まあいいや、保護者なら……

 ま、まっ、マズい!思い出した!腹の中に、

  神楽坂商店街 火災予防運動

が!ああ、カバンの中に入れときゃ良かった……これは非常にマズい。保護者といってもこれから警察署に行くんだからなぁ。もし途中で「あなたも何かやってないでしょうね?」で身体検査とかなったら……うーん、これは何としてでもバレないようにしないと。もし途中でバレたら、

  保護者→犯罪者
  とってもいい人→極悪人

絶対いやぢゃ!

 乗りました。犯人はもちろん後ろで警察官2人に挟まれています。私は助手席です。しかしパトカーってのは……

 何であんなに快適なんでしょうか?内装は黒で統一。とても落ち着いています。走ってもとても静かです。乗り心地も最高です。それにパトカーは改造車ですよね。他の車を捕まえるんだからスピードは何キロでも出せる。きっと気持ちいいんだろうなぁ。座り心地もとても良い。イスも改造しているんでしょうか?いや~、よく出来てますわ。あれじゃ普通車は勝てっこありません。

 牛込警察署に着きました。「火災予防運動」を途中で落っことしたらアウトです。気を付けて警察署の中へ入ります。さて、私は何をやらされるのか……

 やはり私は大した事なく、状況を聞かれただけでした。そんな事より「火災予防運動」のほうが気になります。早く解放されたい。私は解放さえされればセーフです。H田はまだ解放されません。調書を取られているのでしょうか?やけに時間が長いです……

 やっとH田が解放です。まあ器物破損とはいえ、学生がやったちょっとした「おふざけ」です。この日は警察官の、

  「今後は気を付けてな。」

で終わりです。私は警察署から出さえすればOK……

 セーフでした。解放されてから、腹の中から「火災予防運動」を取り出して、H田に見せます。

  「おまえ、よくバレなかったなあ。」

私だってドキドキもんでした。後日、H田が店に謝りに行って、一件落着しました。大事件にならなくて良かったです(^^)


1985年5月
☆楽器置き場から楽器が盗まれる

 あるんですねぇ、こういう事が。どこのどいつでしょうか。ある日楽器置き場から楽器がいくつか無くなっているではありませんか。いくら楽器やドアに鍵をかけてもダメな時はダメなんですね。古い話なので誰の楽器が盗まれたかはよく覚えてませんが、1つ下の後輩の$子が部室で泣いていたのはよく覚えています。新歓コンパでも$子が途中で泣き出しのを覚えています。ただ彼女の場合は確か家財保険に入っていて保険金が降りたような覚えがあります。

 全くどうしようもないですね。楽器を学校に置いている人は家財保険に入ったほうがいいでしょうね。


1985年6月1日(土)
☆理科大ジャズ研の新歓コンパ
「これぐらいやったっていいでしょう」

 理科大ジャズ研の新歓コンパです。前年、全員潰れた1年生たちは、今は2年生。今度は潰す側です。しかも「現場検証」する警官役まで出来ます。これは楽しいぞー(^^)

 ただちょっと複雑なのは私の同期のギター、K太郎。彼が入部したのは前年の秋のコンサート前で、前年の新歓コンパには参加していません。なのでこの年、新歓コンパだけ1年生扱いとなりました。

 場所は前年と変わって、神楽坂を登り切った辺りの居酒屋「鮒忠」です。前年と同じように開始。そして1年生の芸の時間が開始。やはり2年生になると楽しいものです。1年生の芸を観て、日本酒一気飲みの杯数を決めて、後は自分のペースで飲んでいればいいのですから。ただ女性3人への日本酒一気は無しになりました。

 途中で1年生の$子、楽器を盗まれたのを思い出して泣き始めました。いくら1年生潰しのイベントとはいえ、この直前に楽器を盗まれていますからねぇ。これはちょっと可愛そうです。これを見た先輩のKR田さんが同情してそばで「ヨシヨシ」をしています。優しい先輩ですね……その後、何年かして結婚をする事になりますが……まあいいんですけど(^^)

 さて、私と同期のK太郎、複雑感が悪い方向に。1年生がつぶれるのはいいとしても、彼は同期ですからねぇ……何だかギャーギャーうるさいです。間も無く、とてもうるさいです。途中で泣き始めました。うるさい上に泣いている。ああもう……これはなかなかのものです(^^)

 新歓コンパが終わりました。みんなで潰れた1年生を運びます。K太郎は相変わらずうるさいです。階段を降ろす途中、いきなり横の公衆電話の受話器を取って、

  「おい!おふくろ!オレは元気だよ!」

何を言ってるんぢゃ(^^)

 1年生たちを近くの公園へ運び、一休み。その後、大学へ運びます。当時1年生の中にSB崎という人がいたのですが、父親が社長だかで、靴が途中で脱げると、

  「あーん!くつぅー!くつぅー!」

おぼっちゃま育ちしたんでしょう、あんたは(^^)

 大学に到着。1年生たちを3号館のモータープールへ投げ出します。現場検証開始。潰れたモノの周りを白いチョークで囲みます。そして矢印を書いて名前を書けば完成。

  ○←田中(例)

後は潰れた1年生たちを誰かの家に持って行けば終わりです。

 私のアパートは大学から歩いて10分だったので、2人収納する事になりました。1人は1年生のHR川。もう1人は当時ジャズ研にいた1年生の「Gねこ」……本名はKねこだが彼にしかしゃべれない変な群馬訛りのため「゛」が付いた……この2人です。Gねこはうちから歩いて2分ぐらいの所に住んでいたので持って行く事も出来たのですが、とりあえずうちに持って行く事にしました。これが失敗でしたが……

 私、私と同期のH田の2人で、HR川とGねこをうちへ持って来ました。HR川は早速ダウン。普通です。ところがGねこは……うるさい。まだ酔ったままです。何か訳のわからない事を発しています。うちはアパートで、もう深夜で、隣りは一軒家です。うるさい!

  「ピシッ!」

H田と2人で引っぱたきます。ダウンしてしばらく静かにしていますが、また突然起きて訳のわからん事を発します。うるさい!

  「ピシッ!」

引っぱたきます。ダウンしてしばらく静かで、突然起きて訳わからん事を発して……これの繰り返しです。

 だいぶ経ってやっと寝たようです。しばらくH田と2人で話をします。

  「とんでもねーな、Gねこは。」

 突然、Gねこが起きました。もううるさくはないです。部屋からドアのほうへ行きます。ん?トイレか?私のアパートは共同トイレでした。6畳1間で部屋のドアは1つしかなく、このドアから外に出ればトイレ。行きたいなら行けば良いです。ところがドアの前でうつ伏せになります。ん? どうした?でも彼を見ても噴射のようではない。何だ?Gねこに寄ろうとした時、

  「あ、あっ、あーっ……」

何だ?変なやつ……その直後、ドアの前の板張りの床に何か液体が……そしてその液体の量が増えていき、だんだん水溜まりに……

  おねしょ

コ、コッ、コラー!!おまえっちゅうやつは!!何ちゅう事を!!噴射なら……これも嫌だが……まあ仕方がないとしても、おねしょとは何たる事!小便、おしっこ、オショウスイ、検尿だぞ。ったく!!

 私とH田はあまりにも意外な出来事のため……あの世に行きました。まず先にH田が、今、何が起こったのかに気が付き、この世に戻ってきました。私はというと……はて? 今、自分のアパートで何が起きたのか?今から何をすれば良いのか?……H田が私に言います。

  「おまえ、今、自分の状況が
   わかってないだろう。」

はい、そのとおりです……?!……!!

 ようやく私もこの世に戻ってきました。さてこのクソ尿どもは……私のアパートはオンボロで、板張りの床には隙間が出来ています。掃除をしようとする前に床が吸い取ってしまいました。という事は……私の部屋は2階です。当然、下の人の部屋にはおしっこの雨もりが……知ったこっちゃありません。

 Gねこはドアの前でそのままダウンしてます。部屋に戻し、ダウンさせます。ん?ズボンは?……もう知らねぇ。

 しかしとんでもないやつだ。クソーッ!何か仕返ししてやらねば。H田と2人で考えました。

  「マジックで落書きしちゃえ。」

ダウンしているGねこの服をめくり、背中にあのマークを……ネット禁止用語、放送禁止用語、あれを黒マジックで背中一杯にデカデカと書道してあげました。オイッ! コラッ!ありがたーく、チョーダイしろ!

 翌日です。1年生のHR川はもう復活しています。Gねこはというと……まだ訳のわからん事を発してます。んもう、何やこいつは?……そのまま大学へ連れて行きます。3号館のモータープールを見ると「現場検証」があります。実に気持ちがいいです。

 Gねこは部室でもまだ訳のわからん事を発してます。おまえはいったいいつまでそれをやるんか!

 夕方、ようやく発しなくなりました。いったいどこまでが正気でどこまでが酔っているのか全然わからん。そしてGねこは帰りました。

 さて、うちはタレ尿やら何やらで汚れています。ありがたい事に掃除をするため1年生のHR川、$子、SB崎の3人がうちへ来る事になりました。

 4人でうちへ来ました。掃除を始めてしばらくしすると、ドアからノックの音が聞こえます。私が出ると、立っていたのはアパートの横の一軒家の人のよう。私の部屋の窓の横は隣の家です。この人に私は部屋の外の廊下へ引っ張り出されます。

  「昨日何やってたんだ!」

始まってしまいました。原因はGねこのうるさい声だったとはいえ、この部屋の家主は私、責任は泊めた私となるわけであります。途中、

  「オレは散弾銃持ってんだ。」
  「頭ぶちぬくぞ。」

そんなのやってみろってんだ。それに何で散弾銃なんか持っているのか?あんた怪しいぞ…… しばらく小言があって、その後、

  「まあ隣同士なんだから
   仲良くしようよな。」

散弾銃で頭ぶちぬくなんか言ってるヤツとは仲良くしたかねーよ……これで終わりました。部屋に戻ると、後輩3人して、

  「何?あの人?」

そして掃除を済ませ、3人は帰りました。

 ったく……ほれみろ、言わんこっちゃない。潰れるのや噴射は仕方ないとしても、あの何度ひっぱたいても出てくる異常なうるささはいったいなんぢゃ!あれさえなきゃ大丈夫だったのに。しかもおねしょだぁ?Gねこのヤツめ!クッソーッ!!

  「バカヤロウ!」

と夕日に向かっ……向かいません。必要ありません。やっといて良かった、あのマーク……フフフ……ヤツのうちには風呂がない。銭湯なんだわさ。いまごろヤツは……ガハハハ……(^^)


1985年4月~6月
☆居酒屋「駒安」でのバイト

 理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」は、ジャズ研の人たちで代々バイトをしていて、私が入部する10年以上も前からやっていたそうです。私も家が近かったのもありますし、少しばかりやる事にしました。接客商売は苦手なので洗い場です。3ヶ月ぐらいでしたでしょうか、お世話になりました。



<手荒れ>

 バイト自体はそれほど大変ではありませんでしたが、途中で私自身に問題が出てきました。私も予想していなかったのですが、

  手荒れ

自宅の洗い物では何ともありませんでした。バイトは週2、3日程度で、毎日ではありませんでしたが、バイトの日は何時間も手を洗剤に付けているのですから、肌が弱い人はダメですねぇ。それでも他に手を使わなければいいのですが、

  ピアノ

これは痛いです。一番ひどい時は指10本すべてひび割れが起きていました。これでピアノを弾くと、

  ひび割れから血

この時期とても辛かったです。

 一度手荒れになってしまうと元に戻るのは相当時間がかかります。バイトが無くなってから家での洗い物は必ずゴム手袋をするようにして半年、水ぶくれが全部無くなりました。しかしこれで治ったと思ったら大間違いで、ゴム手袋を使わずに洗い物をするとまた手荒れが出てきます。バイト前まではそんな事は無かったのに、それが洗剤に触れると荒れてしまう体質になってしまいました。この体質が元に戻るまで何年かかった事か。

 大丈夫になったのは大学を卒業してからです。



<飯田橋での最後の駒安>

 私がバイトを始めた頃は、すでに駒安はどこかに移転する事が決まっていました。当時は大学の近く、飯田橋の交差点の角の辺りにありました。建物は1Fと2Fが客席、3Fが物置場でした。

 飯田橋の駒安の最終日、私はバイトでした。ジャズ研の人たちも沢山飲みに来ました。私は洗い場担当でしたが、洗い物だけでなく、生ビールを注いだり、酎ハイを作ったり、もつ煮込を器に入れたりなどの作業もしていました。もつ煮込は大きな鉄鍋に入っていました。直径50cmぐらいあったでしょうか。閉店後、残ったもつ煮込はそのまま保存して、次の日に少し具を足してまた使って、というのを続けていました。

 最終日、翌日のもつ煮込は必要ありません。ジャズ研の人たちが来ているので、最終日特別記念として、

  鉄鍋ごと

出しちゃいました。気持ちいいですね~、テーブルの上にドーンとデカい調理用もつ煮込の鉄鍋が。全部食えんのか?食えー!です。これで飯田橋駒安の最終日が終わりました。

 駒安はしばらく間があって、隣の駅の水道橋に移り、再び飯田橋、それも大学のすぐ近くへ戻りました。


1985年?月
☆じみた、「寅さん」で映画俳優になる!
「寅さんの映画に出演!」

 ウソつけ!……いえ、正確にはウソではありません。まぁ、ただの観客役の1人です。つまらないので、ここは読み飛ばしてください(^^)

 読み飛ばしてください。

 それでも読みたい人は……

 ホントにつまんないですよ……

 ……

 理科大のすぐ近くにあるジャズ喫茶コーナー・ポケットから、ある日バイトの話が来ました。聞くと、製作中の映画「寅さんシリーズ」にライブハウスのシーンがあり、ヴォーカルの丸山繁雄さんが出演し、その観客役が欲しい、という事でした。これを聞いて、理科大ジャズ研の人たち10人近くでやろうという事になりました。

 当日。場所は六本木のピットイン。この日の撮影には渥美清さんは来ない事になっていましたが、他の人はいますねぇ。樋口可南子さんや平満さん。俳優ですわ、俳優。途中でジャズ研の連中、

  「へぇ、樋口可南子って
   あんなに顔小さいのか。」

感心します。

 私たちは観客の役なので、演奏を観て拍手するだけで、とても簡単です。撮影は何時間かで終了しました。

 しかし映画界というのはバブってますねぇ。ジャズ研以外にも観客役は沢山来ていて、ライブハウスは満員になりましたが、途中、全員弁当が出ました。ギャラとして確か1人6千円ぐらいもらったと思います。ほんの少しの撮影のためにこれだけのお金を使えるなんて……ジャズ界にも少し分けてほしい(^^)

 後日、私は映画を観に行かなかったのですが、行った人が、

  「じみた、おまえが一番映ってるよ。」

まあ何という事。どうやら撮影時に私がいた場所が良かったらしい。その後、自分でもビデオを観ましたが、確かに私が一番映っているようです。

 まあ観たい人は観てくださいな。樋口可南子のやつです。


1985年8月
☆理科大ジャズ研の夏合宿

 理科大ジャズ研の夏合宿です。2回目です。場所は前年と同じく、新潟県の石打スキー場にある「ロッジ白道」です。



<後輩、$子は強かった……>

 後輩がいる初めての合宿です。やっと先輩たちに下っ端扱いされなくなり、こちらも後輩を自由に使えます。

 ある夜の事、いつものようにみんなで酒を飲んで、深夜、ロビーに残っているのは、私、私と同期のMなぶ、 1年生の$子の3人です。3人とももうすぐ寝るので、もう酒は飲んでなく、普通に会話をしていました。何の話だったか、途中で$子、

  「Mなぶさんはねぇ……」

会話はMなぶと$子だけになります。そしてだんだんMなぶの態勢が悪くなっていきます。反論はするのですが、

  「それもわかるんだけど、
   Mなぶさんはねぇ……」

返されます。1人でMなぶを集中攻撃しています。全く止まりません。

  「だからMなぶさんはねぇ……」

途中、$子がトイレへ行きます。Mなぶは私に、

  「いったい何なんだよぉ~」

うん、よくわかります。それに早く寝たい。でも始まったものは仕方ない。

 トイレから戻ってきた$子、続きを始めます。

  「そう、だから、Mなぶさんはねぇ……」

いつまで経っても1人で集中攻撃しています。しばらくして$子がまたトイレへ行きます。

  「何なんだよぉ~、$子ってのは~」

よーくわかります。早く寝たいし。でもどうしようもない。

 トイレから戻ってきた$子、また続きを始めます。

  「だからね、Mなぶさんはねぇ……」

1人集中攻撃は延々続きます。

 だいぶ時間が経ちました。1年生のPヤパが来ました。未明にロビーで声が聞こえたので気になったのでしょう。2人の会話を聞きます。Mなぶの言い分を聞いて、

  「うんうん、よくわかる。」

$子の攻撃を聞いて、

  「うん、それもわかる。」

どちらの見方をしていいのかわかりません。相変わらず1人集中攻撃は続いています。

  「だからねぇ、Mなぶさんはねぇ……」

私と後輩のPヤパは横でただ聞いているだけです。どうしようもありません。

 結局、酒も飲まずに朝になってしまいました。みんな起きてきました。

  「そこで何やってんの?」

何をやっているどころではありません。徹夜でMなぶが後輩に説教されていたのです。

 $子は先輩よりも強かった……。



<体に止まったコガネ虫、さてどうする?>

 最終日の前日、前年と同様、訳のわからない「山田杯」です。1年生の芸の時間があります。

 1年生のアルトのT川、彼はとても酒が弱く、ビールはコップ1杯しか飲めません。

 さて、T川の芸の時間です。みんなの前に立ちました。突っ立っているだけです。コップ半分のビールしか飲んでいないのに、もう酔っぱらっているようです。ぼーっと立っています。

 するとそこへ、

  ブ~ン

コガネ虫が飛んで来ました。

  パタッ

お見事です。コガネ虫がT川の体に止まってしまいました。彼は何かが体に止まったのはわかったようです。コガネ虫を手に取りました。見ます。それを払いのけようとしているように見えた、その時です。

  パクッ!

ああ!口の中へ!……食っちまいました。もちろんみんな大爆笑……

 もう用意していた芸なんてどうでもいいです。最高の芸です(^^)


1985年10月?
☆私の名前は「クポキョン・キョロタ」

 私は1年生で早くも留年してしまいました。それも必須科目中で単位を落としたのは外国語だけです。この年は外国語を取らなければなりませんが、大学の英語は難しい。それに今度落としたら大変です。また必須の授業は外国語しかないので暇です。どうせ暇なら……

  「他の外国語も全部講義に出てみよう。」

という事で、講義にあった、ドイツ語、フランス語、ロシア語を全部受けることにしました。ドイツ語は前年度も受けていたのでわかる。フランス語もドイツ語のようなものだろう。でもロシア語というのは……NHK教育テレビのロシア語講座を見ると文字が変。どんな言葉なんだろう……

 ロシア語の教科書を買います。見てみます。まずは「ABCDE……」です。

  「АБВГД……」

読めません。

  「И、Я」

反対ぢゃ。

  「Ж、Л、Ч、Ю」

地図記号か?……どうしようもないのでやめます。

 第1回目の講義です。まずアルファベットを習います。そしてロシア文字で自分の名前を書く事になりました。一生懸命変換します。

 H → Х  K → К
 I → И  U → У
 R → Р  B → Б
 O → О  O → О
 S → С  T → Т
 H → Х  A → А
 I → И

出来ました。

  「ХИРОСХИ КУБОТА」

何ぢゃこれは?これがわし?

 理科大ジャズ研の人たちにも、私がロシア語の講義を受けている事を言いました。理科大でロシア語を受講する人はあまりおらず、講義の時間枠も学部全体で1つしかありません。

 ある日、部室でジャズ研の何人かで話をしています。

  「ふ~ん。」
  「ロシア語なんか取ってるんだ。」
  「で、ロシア語ってどんなの?」

私が部誌に書きます。

  「これ、私の名前。」
  「ХИРОСХИ КУБОТА」

これを見た私の同期のEve、

  「……」

  「クポキョン・キョロタ!」

正解です!そう、私はジャズ関係者の間では「じみた」、他では「久保田浩」を名乗ってますが、戸籍上の名前は、

  クポキョン・キョロタ

なのです。よくわかったなあ……


1985年10月?
☆居酒屋「駒安」の分店、もんじゃ焼き屋の手伝い

 飯田橋にあった理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」は、この年の6月に移転のため一旦閉店しました。

 その後、駒安は水道橋へ移転しましたが、元々この店をやっていた従業員たちのほうは別の店を開く事になりました。

 場所は、神楽坂通りを上って大久保通りとの交差点を左に曲がってすぐのところの2階。理科大から歩いて5、6分ぐらいです。ここに麻雀屋をオープンしましたが、すぐ閉店。その後、もんじゃ焼き屋を開く事になりました。私のアパートはその場所から歩いて5分ぐらい。そこで、オープンする前に店長となる人から、

  「大学の帰りにでも寄って
   手伝ってくれよ。」

バイトではありませんでしたが、この年は留年中で外国語しかなく暇だからいいか、という事で手伝うことにしました。

 一番大変だったのは、新品の鉄板焼きでした。新品の鉄板を使えるようにするため、大量のキャベツを何回も何回も焼きました。

 私は、もんじゃ焼きはこの店で試食するまでは食べた事がありませんでした。オープンする前に、ここで沢山食べさせていただきました。作り方も教えてもらいました。

 オープンしてからも短期間でしたが手伝いに行きました。客も少しずつ増えていきました。


1985年11月3日(日)
☆理科大ジャズ研のコンサート
<渋谷 エピキュラス>
「じみたⅡ」
苅田(ts) じみた(p) 初田(eb) 蓑下(ds)

 理科大ジャズ研のコンサートです。2回目です。会場は前年に続き、渋谷のエピキュラスでした。

演奏曲目は、

1. Land Of The Lonely (McCoy Tyner)
2. Song For Hope (高瀬アキ)
3. Little Mayu (板橋文夫)
4. Love Samba (McCoy Tyner)

 この時に演奏した曲はなぜだかよく覚えてます。私がマッコイ・フリークだった頃です。

 「Land Of The Lonely」はマッコイの「トライデント」というアルバムに入っている曲です。3拍子のミドルテンポでモードの曲です。曲の感じは曲名のとおりです。「トライデント」はロン・カーターとエルビン・ジョーンズとのトリオです。

 「Song For Hope」はピアノの高瀬アキさんの曲で、ドラムの蓑下さんが持って来ました。ボサノバか8ビートのような感じで、テーマは8小節、コードは2つしかなく1小節ずつ変わる、これまたモードの曲です。

 「Little Mayu」は板さんのオリジナルです。スローの8ビートです。板さんに1人目の子供が出来て、その「まゆ」ちゃんのために曲を作ったそうです。

 最後の「Love Samba」はまたマッコイのオリジナルです。かなりテンポの速いサンバです。またまたこれもモードの曲です。

 という事で、いわゆる4ビートの曲やスタンダードは1曲もありませんでした。


1985年11月17日(日)
☆東京女子大の学祭に出演
「インスタントラーメン」
望月(key) じみた(p) 浅田(b) 蓑下(ds)

 東女の学祭にジャズ研4人でバンドを組み、出演しました。ラムゼイ・ルイスのフュージョンの曲で「Lakeshore Cowboy」「Expansion」やスティービー・ワンダーの「Isn't She Lovely?」などを演奏しました。

 行くとバンド名がなぜか「インスタントラーメン」になっていました。即席バンドという意味だったのでしょうか。

 この時、確か望月さんが本番に遅刻したような……しかも理科大の学祭ならまだしも、女子大で遅刻とは……(^^)。でも、望月さん5年、浅田さん4年、蓑下さん3年、じみた2年、ですから、文句は言えません(^^)


1985年11月21日(木)~24(日)
☆理科大の学祭「あけみ」

 理科大の学祭、理大祭「あけみ」です。2回目です。

 私のバンドはコンサートの時と同じです。バンド名とメンバーは、

「じみたⅡ」
苅田(ts) じみた(p) 初田(eb) 蓑下(ds)

 コンサートの所の曲以外に、この年に流行った「We Are The World」などを演奏しました。



<東工大のレギュラーバンドが来る>

 この理大祭期間中のある日、東京工業大学のレギュラーバンドが理科大の学祭で演奏しました。バンド名とメンバーは、

「エゾギク」
八木敬之(ts)  早稲田ダンモ
高木宏真(p)  青山ジャズ研
小野良平(b)  東大ジャズ研
西尾研一(ds)  東工大ジャズ研

東工大はドラムの西尾さんだけでした。きっと西尾さんが都内のジャズ研から一番上手いのを集めたのでしょう。

 とにかく演奏は凄かったです。全くもってプロの演奏でした。1曲目でソニー・ロリンズのDoxyを演奏したのですが、それを観ていた理科大ジャズ研の先輩が、最初のテーマの演奏中、

  「何だよ!」
  「ありゃあアマチュアじゃねえよ!」

ぶったまげていました。それほど強烈な演奏でした。

 ドラムの西尾さんは、トニー・ウィリアムスそのものでした。何でそういう事になるんでしょう。

 小野さん以外は後に知り合いになれました。

 ピアノの高木さんは、長い間、季刊雑誌「ジャズ批評」の編集をされていましたので、御存知の方も多いのではないでしょうか。


198?年
☆アルトの井野川康治さんが亡くなる

 日付を覚えていないのと、この年に亡くなったのかも覚えていません。でもこの年の理大祭にいらっしゃって、とても素晴らしい演奏を披露した事は間違いありません。私も1曲だけ共演させていただきました。井野川さんはジャズ研OBではありませんが、OB名簿には名前が載っていました。昔、深い関係があったようです。

 この時、何歳だったでしょうか?理科大ジャズ研で親しかった先輩方から考えると、私の20年近く上なので、30代後半です。早すぎます。

 おそらくそれほど有名ではありませんが、いわゆる隠れ名プレイヤーです。ナベサダさんが吹いているとされている演奏が実は井野川さんが吹いている、という話も聞きました。歌謡界ではテレサ・テンさんのバックもやっておられたようです。

 井野川さんが住んでいたアパートは、この当時ジャズ研にいた私の1年後輩でテナーのGねこが住んでいたアパートと同じで、私のアパートから歩いて1分でした。Gねこはそういう事もあって井野川さんと親しくしていたようです。

 亡くなった理由ですが、これは本当かどうかわかりませんが、一応聞いた話によると、自分のアパートで酒を飲んで酔っぱらって吐いてしまい、その吐いたものが喉につまって窒息死……何というつまらない事で……まあミュージシャンらしいといえばそうかもしれませんが。井野川さんからすれば、大好きな酒で酔って、わからないうちに逝ってしまったのでしょう。

 私がたった一度だけ生で聴いたあの名プレイは、もう二度と聴く事が出来なくなりました。


1985年11月30日(土)
☆理科大ジャズ研外でD年養成バンド開始
<セントラルプラザ内 スタジオ>

 名目「D年養成バンド」なるものをジャズ研のバンドとは別に組みました。そんな大げさなものではなく、お手軽に使える後輩と一緒にやろうという事です。ピアノトリオで、他のメンバーは今度2年目になる後輩の、平川(b) Roa子(ds)です。

 理科大のすぐ近くに、20階建てぐらいのセントラル・プラザという建物があります。センプラと呼んでいました。ここに無料で借りられる公営のスタジオがあります。出来た頃、ジャズ研でもよく使っていました。D年養成バンドはこのスタジオがメインでした。半年ぐらい続いたと思います。

 スタジオですが、次第に環境が悪くなりました。タダですから高校生のロックバンドなども使います。ひどい時はドラムに穴が空いていました。そのうちジャズ研では使わなくなりました。


1985年12月14日(土)、15(日)
☆ライブ鑑賞 2日連続
<新宿 ピットイン>
「板さんにハマってしまう」

 これより1年前、新宿ピットインで板さんの恐い姿にショックを受けた私は、1年間、板さんどころか、ライブハウス自体に行きませんでした。それほどショックでした。

 あの恐かった板さんは今、何をやっているのか……恐る恐る行ってみる事にしました。



14日(土)
「板橋文夫 セッション」
大友義雄(as) 榎本秀一(ts) 向井滋春(tb) 板橋文夫(p) 川端民生(b) 古澤良治郎(ds)

 この日、開場前に着くと、もう列が出来ていました。開演少し前には超満員でした。へぇ、人気あるのね。知らなかった……

 3管のセッションバンドでした。恐る恐る観に行った板さんの姿は……やっぱり1年前と何も変わっていませんでした。恐いです。まあ1度観ていたのでショックはそれほどではありませんでしたが、やはりライブが終わってからは全く言葉が出ませんでした。

 まず1曲演奏し、その後メンバー紹介がありました。初めて板さんの声を聞きます。

  「あー、どーぼありがとございばす。」
  「ベンバーしょうかいしばす。」
  「トロムボーン、ぶかいしげはる……」

こうしか聞こえなかった。その後は最後の挨拶しかせず、曲名は1曲も紹介しませんでした。はぁー、やっぱりこういう人なのか……

 でも何だかやっている事はとても良い。何であんなに真剣なんでしょうね。恐いのに、この時とても感動してしまいました。特に板さんのオリジナルのいかにも日本人という感じの曲が良かったです。この時は……

……板さんが曲紹介をブッチしたので、この時はわからなかった。後でレコードやCDを買って判明した……

「I'm Gone」「Last Summer」「Mina」を演奏しました。日本人の田舎臭い感じがとても良いです。板さんは栃木県出身、私は北九州の田舎出身。通じるものがあるのでしょうか?私は後に板さんのソロピアノの「渡良瀬」を買いました。渡良瀬川ですね。

 このライブで私は板さんにハマりかけました。


15日(日)
「板橋文夫 クインテット」
梅津和時(as, bcl) 板橋文夫(p) 廣木光一(g) 吉野弘志(b) 小山彰太(ds)

 この日も超満員でした。編成は前日とは違って1管のクインテットでした。

 1曲目はソロピアノでした。前日も演奏していたオリジナルの「I'm Gone」です。ソロでもやはり途中ピアノがブッコわれそうになりますが……大丈夫でした。私はもうこの時点で何も言葉は出ません。やっぱり弾く姿は恐い。

 1曲目が終わると、他のメンバーたちが控室から出て来ました。私は板さん以外のメンバーは初めて観ます。アルトの梅津さんも初めてです。名前はどこかで聞いた事がある。ドクトル梅津だ。

 そして梅津さんがステージへ上がりました。

  「何ぢゃ、このハゲのおっさんは?」

……失礼しました。でもそう思った……この頃は髪の毛を剃っている人なんてめったにいませんでしたから。

 メンバー全員での最初の曲は……

……もちろんこの日も曲紹介はブッチのため、後で買ったCDで曲名が判明した……

「8848」です。多分曲の構成が 8-8-4-8 小節だからだと思いますが……安易ぢゃのぅ……日本民謡がジャズになったような曲です。

 まずこの曲で梅津さんが爆発しました。

  ハゲ爆発!

やめんか!……小さな体なのに凄い音を出すんですね。鳴り響いていました。高い音はいくらでも出る。低い音も……アルトは実音でC#までしか出ないのですが、あのアサガオ部分をひざで「カパッ」と閉じてCを出しているではありませんか。はぁ~、そういうワザがあるのね。ちなみにバスクラリネットも吹いていましたが、高音は何とアルトと同じぐらいの高さの音まで出していました。はぁ~、バスクラリネットってそんな高い音が出るんですね。

 見かけは「変なおぢさん」でしたが、演奏はとても良かったです。

 前日も演奏していた「Mina」もやりました。スローの8ビートの曲で「いとしのエリー」のような感じです。梅津さんも板さんも爆発していました。曲名が何だかは後から知ったのですが、板さんに2人目の子供が出来て、名前が「ミナ」だとか……感動しまくりました。

 このライブで私は板さんにハマってしまいました。


1985年12月21日(土)
☆理科大ジャズ研外のバンド、STAMNのパーティ

 先輩が参加していた STAMN というバンドのパーティに参加しました。沢山の人が参加していました。その中に次の人たちがいました。というかこれが STAMN のオリジナルメンバーだったんでしょうか?

Bien(vo)  外部
水無瀬(ts)  理科大ジャズ研先輩
重松英子(p)  外部
戸井(b)  理科大ジャズ研先輩
西川亨(ds)  外部

 ドラムの西川亨さんは、この後、私は長い間お世話になりました。

 理科大ジャズ研の先輩の水無瀬さんは、私が入部した時、私が住んでいたアパートから歩いて5分かからないぐらいのアパートに住んでいて、私が入部した翌日にうちに泊まりに来た5人の中の1人でした。大学の学科も私と同じでした。そういう事もあってとても可愛がってもらえました。私が入部してから約2年、私も水無瀬さんも引っ越しをしなかったので近所のままでした。とても面倒見の良い先輩で、私生活ではたいへんお世話になりました。私が東京で1人暮らしをやって行けたのは水無瀬さんのおかげといってもいいぐらいです。

 ヴォーカルの Bien さんは、水無瀬さんが住んでたアパートで水無瀬さんの隣に住んでいました。なのでこういうバンドがあったんでしょうね。ちなみに外人ではなく、漢字では美園です。私も家が近かったのもあり、Bien さんとも仲良くさせていただきました。


1985年12月~1986年1月
☆仕事をするはずだった店

 理科大ジャズ研のある先輩からある人を紹介されました。その先輩に聞くと「渋谷に新しく店を出す人がいて、演奏者が欲しいようなので会ってみない?」という事でした。まあ一応会ってみようか、という事で経営者を紹介されました。

 オープン前の店へ行ってみると、クラブのような店でまだ楽器はなく、「BGMで少しだけ演奏してほしい。楽器はエレクトーンで良い。」との事。私はこの時まだピアノを始めて1年しか経たず、ソロピアノはほとんど出来ませんでしたが、エレクトーンであれば1人でも大丈夫です。機種は安いものでも良い事を伝えました。おおよその値段を伝え、経営者も了承しました。

 後日です。店へ行くとその経営者に「エレクトーンじゃなくてエレピじゃだめ?」と言われました。理由を聞くと、

  「エレクトーンは高いから」

この前、会った時に値段は言ったでしょうが。アンタそれでOKしたでしょうが……「最初はエレピでやってもらって、そのうち客が入って繁盛してきたらエレクトーンを買うから。お願い。」と言われました。生ピアノではなくエレピ。しかも何万円もしない、

  「安いのにしてくれる?お願い。」

んもう……まあそんなに頼むなら仕方ない。それでOKしました。

 後日です。店で軽く飲む事になりました。経営者は私がジャズ研という事を知っていますが、飲み始めるとカラオケを開始。歌謡曲を何曲か歌います。そして「君も1曲どう?」……私は歌いません。何かちょっと雰囲気が違う。でも別にいいです。私は演奏の仕事が出来ればいいのです。この日、この店の店長になる人を紹介され、演奏をいつから始めるかを後日電話で連絡してもらう事になりました。

 後日、店長から電話が掛かって来ました。が、内容は、

  「経営者から『待った』がかかって
   いるので、もう少し待ってください。」

おそらくまた金です。エレピを買う金も渋ったんでしょう。

 後日、店長から電話。同じです。

  「まだ待ったがかかっているんで……」

 後日、連絡がないので、私から電話します。

  「まだ待ったがかかっているんで……」

フザけんな!もう二度と電話するか!……向こうからも掛かって来ませんでした。

 結局、

  「エレクトーンを買うから演奏を頼む。」
  「高い、やーめた。」
  「エレピを買うから演奏を頼む。」
  「高い、やーめた。」

全くもって自分勝手な理由で、私はこれに振り回されていただけです。しばらく渋谷のこの店の付近を通ると気分が悪くなりました。


1986年2月4日(土)
☆理科大ジャズ研外で先輩の戸井さんのバンドに参加
「戸井バンド」
谷川(ts) じみた(p) 戸井(b) 西川亨(ds)
※戸井バンド開始

 理科大ジャズ研で私の3つ上の先輩、ベースの戸井さんがジャズ研とは別に組んだバンドにメンバーとして参加しました。メンバーは4人です。テナーの谷川さんは同じく理科大ジャズ研先輩で戸井さんと同期、ドラムの西川さんは外部の人です。このバンドは特にどこか人前で演奏したわけではありませんが、3年近く続きました。


1986年2月?
☆炊飯器ですき焼き

 寒い時期です。すき焼きのシーズンです。貧乏学生といっても、たまにはすき焼きを食べたいものです。

 理科大ジャズ研先輩、MN瀬さんのアパートは私のうちから歩いて5分ぐらいでした。

 ある日、MN瀬さんから電話がかかってきました。

  「今日、暇?」
  「よし、これから、じみたんちに
   行くからすき焼きでもしようぜ。」

そう言われても私のうちにはすき焼きが出来る道具はないし、焼肉プレートのようなものもありません。

  「どうにかなるよ。」

電話で話すより会ったほうが早い。直後、肉を持ってうちに来ました。

  「すきやき食いてーな。」

私のアパートは6畳1間で、台所は1畳もない超狭いスペース。自炊道具すらそんなにありません。MN瀬さんのアパートも4畳半1間で私と同じようなもの。肉はあれど道具がない。焼いて食ったほうが早い。でも2人で何とかして「部屋で」すき焼きが食べたい。考えます。そしてMN瀬さん、

  「炊飯器で出来んじゃねーか?」

何?炊飯器で?確かに肉が加熱されれば出来るかもだけど、炊飯器はどうかなぁ?炊飯器は一応うちにありますが、うちのは世の中で売っている中で一番小さいやつで、フタがちゃんと閉まんないやつ。これじゃちょっと無理。

 理科大ジャズ研後輩で1つ下のR子は、うちから歩いて1分のアパートに住んでいました。

  「R子ならもう少し大きい炊飯器ぐらい
   持ってんじゃねーか?」

早速、呼び出しです。R子の部屋には電話が無かったので、家へ行きます。

  「今からすき焼きやるから
   炊飯器持ってうちに来なよ。」

何ですき焼きをやるのに炊飯器なんでしょう?

  「えーっ?」
  「炊飯器ですき焼きをやるんですか?」

先輩2人からの呼び出しなので炊飯器を持ってうちへ来ます。でも3人とも少し疑問です。

  「ちゃんと出来んのかなぁ?」

まず醤油と砂糖を炊飯器に少しだけ入れます。そして肉を3切れ入れます。フタを閉め、スイッチを「炊く」にします。しばらく待ちます。そしてフタを開けてみます。

  「出来てる!」

肉を取り出し、食べます。

  「うめーじゃん!」

また肉を3切れ入れ、フタを閉めます。しばらくしてフタを開けます。出来ています。肉を取って食べます。以下同じ……

 貧乏学生が考えた、すき焼きの方法です。

 後日、この3人で、うちでもう一度炊飯器すき焼きをやりました。


1986年3月
☆理科大ジャズ研でCPを買う

 私が理科大ジャズ研に入部した時、生ピアノはなく、普通にエレピと言われるものもなく、フェンダーローズだけで、生ピアノ系の音が出るものは何もありませんでした。そこでジャズ研のピアノの人たちでヤマハのCPを買う事にしました。CPは弦が張ってあるエレクトリック・ピアノです。買ったのはアップライト型のCP。これでようやく生ピアノ系の音が出る鍵盤がジャズ研で使えるようになりました。この後の春合宿から使いました。


1986年3月16日(日)~23日(日) → 24日(月)
☆理科大ジャズ研の春合宿
「大雪で帰れなくなる」

 理科大ジャズ研の春合宿です。2回目です。場所は前年と同じく、山梨県の西湖の湖畔にある民宿「東村」です。

 最終日の前日、打ち上げの日です。夜、セッションを始めます。途中で雪が降り出しました。かなり降っています。

 深夜、すでにだいぶ積もっています。翌日は帰る日。みんな心配です。

 最終日。見事です。積雪60cm。しかもまだ降っています。早く出発しなければ大変です。朝食を済ませ、急いで片づけます。

 ジャズ研の人の車の1台にガソリンを入れるため、西湖の反対側にあるガソリンスタンドへ行きました。ところが1時間たっても帰って来ません。おそらく途中で動けなくなったのでしょう。みんな心配し始めました。かなり経ってから帰って来ました。こんな状態で帰れるのか?

 誰かが高速道路情報を電話で聞きます。

  「中央高速、雪のため通行止めだって。」

ガーン……でも下の国道なら帰れる。しばらくして、また誰かが高速道路情報を電話で聞きます。

  「国道20号も通行止めだって。」

ガ、ガーン……でも南の御殿場のほうへ行けば大丈夫かも……もう昼食の時間です。まだ身動きが取れません。

 昼食が終わってしばらくしてからです。

  「河口湖付近、全部ダメそうだ。」

ガ、ガ、ガーン……もうダメです。帰れません。どうしようもありません。東村で1泊するしかなくなりました。

 東村の方々もこの事情では……この日の宿泊料や食事代はすべて無料にしていただけました。大感謝です。

 翌日、無事に帰れました。

 ちなみに、この日は私のアパートの引越し予定日だったのですが、翌日に延びてしまいました。




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