じみたの歴史
− 大学2年目 −


私の大学2年目の出来事です。
日付 出来事
1985/04
〜1986/03
病院でのバイト
1985/04 理科大ジャズ研の花見・・・出てきた曲は
1985/05 「$子」「Roa子」・・・最初から決まっていたあだ名・・・「Payapa」って?
1985/? パトカーに乗ったあの日
 <私は大丈夫でした>
1985/05 楽器置き場からいくつか楽器が盗まれる
1985/06/01(土) 理科大ジャズ研の新歓コンパ
 <これぐらいやったっていいでしょう>
1985/04
〜1985/06
居酒屋「駒安」でのバイト
 <手荒れ>
 <飯田橋最後の駒安>
1985/? じみた、「寅さん」で映画俳優になる!
 <寅さんに出演!>
1985/08 理科大ジャズ研の夏合宿
 <後輩、$子は強かった・・・>
 <体に止まったコガネ虫、さてどうする?>
1985/10? 私の名前は「クポキョン・キョロタ」
1985/10? 居酒屋「駒安」の分店、もんじゃ焼き屋の手伝い
1985/11/03(日) 理科大ジャズ研のコンサート
1985/11/17(日) 東女の学祭に出演「インスタントラーメン」
1985/11/21(木)
〜1985/11/24(日)
理大祭「あけみ」
 <東工大レギュラーバンド来る>
198? アルトの井野川耕治さん亡くなる
1985/11/30(土) 理科大ジャズ研外で、D年養成バンド開始・・・セントラル・プラザのスタジオ
1985/12/14(土)
1985/12/15(日)
ライブ鑑賞2日連続・・・板さんにハマってしまう
 <1日目・・・板橋文夫セッション at 新宿「ピットイン」>
 <2日目・・・板橋文夫クインテット at 新宿「ピットイン」>
1985/12/21(土) 理科大ジャズ研外のバンド、STAMNのパーティ
1985/12
〜1986/01
仕事をするはずだったお店
1986/02/04(土) 理科大ジャズ研先輩、戸井バンド開始
1986/02? 炊飯器すき焼き
1986/03 理科大ジャズ研でCPを買う
1986/03/16(日)
〜1986/03/24(月)
雪で帰れなくなった理科大ジャズ研の春合宿

病院でのバイト
1985/04〜1986/03 / 19歳〜20歳 / 大学2年目
 大学1年目のところで書いてあるように、私は1年生で早くも留年してしまいました。それも落としたのは外国語だけです。2年生の間、暇になるのは明らかです。
 ある知り合いの義理の兄弟が医者をやっていました。私はその病院でアルバイトをすることになりました。週に1回、1年間です。内容はパソコンでカルテ内容を入力するという簡単なものでした。個人病院でまだできたばかりでした。1年間お世話になりました。

理科大ジャズ研の花見・・・出てきた曲は
1985/04 / 19歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研で花見をしました。場所は理科大の近くの北の丸公園、皇居の近くです。
 音楽屋さんの花見ってのは楽器を持ち出すことが結構多いです。この日は先輩の苅田さんがテナーを持って花見に参加しました。
 しばらく飲んだあと、楽器をセッティングし始めました。いよいよです。待ってました。
    「マイムマイム」
    「?!」
・・・なんという曲を?!・・・それは小学生のダンスじゃないですか・・・いや、まあ、それならできます。確かにできます。
    「吹いて踊れるマイムマイム」
踊れます、サックスを吹きながらでも・・・踊ってます。サックスでマイムマイムを吹きながら踊ってます・・・
 これは大爆笑でした。

「$子」「Roa子」・・・最初から決まっていたあだ名・・・「Payapa」って?
1985/05 / 19歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研でいよいよ後輩が入ってきます。私の代は全部で8人で全員「男」です。みんなで適当なことを言っています。
    「今年は女が入ってくるかなあ。」
    「入ってきたらどうする?」
    「変な名前、付けちゃおうか?」
    「ミュージシャンの名前モジったら?」
    「例えばアルトだったら?」
    「う〜ん、エリック・ドル子とか。」
    「ドラムだったら?」
    「マックス・ロー子とかどう?」
    「ピアノだったら?」
    「セロニアス・モン子とか。」
    「モン子? そりゃやばいんじゃない?」
そう、あなたたちの名前は最初から決まっていたんです。それに世の中うまくできてます。前年は1人も女性が入らなかったというのに、見事に女性が入ってくるではないですか。
 めでたく(?)、アルトの1年生は「ドル子」に、ドラムの1年生は「ロー子」に命名されました。「ドル子」・・・同じです、「$子」でいいです。「ロー子」は・・・Roa子でいいですね。
 その後です。理科大ジャズ研の私の1つ上の先輩のピアノの望主さん(現:広瀬さん)は大学は東京女子大学なんですが、彼女の後輩がピアノで入部することになりました。また1人、女の子が東京女子大学から来るそうです。ピアノです。でも「モン子」じゃちょっと・・・
 入部しました。なんだか部室で1人で歌っております。
   「パヤパヤパヤ〜、パヤパヤ〜・・・」
あなたは今日から「Payapa」です。
 私の1つ下の後輩の女性3人、すべて片づきました。

パトカーに乗ったあの日
 <私は大丈夫でした>
1985/? / 19歳? / 大学2年目?
 若いときは酒を飲むとモノを盗みたくなるものです。先輩のアパートにもありました。工事現場でぐるぐる回っている黄色のランプ。そんなものいつ盗んできたんでしょうか。その先輩に聞くと、それどころか、
    「昔、公衆電話を盗んだんだけどねえ。」
・・・はぁ?公衆電話?
    「持っててもしょうがないから捨てちゃった。」
盗むのもたいへんですが、どこに捨てたんでしょう? 燃えないゴミに一緒に出したんでしょうか? ザブトン3枚です。
 今だから言えます。私もいろいろやりました。
 その1。同じようなぐるぐる回っている赤いランプ。パトカーの上とかについてるあれです。あるお店に置いてある看板の上についてました。お店が目立つようにつけてあったんでしょうねぇ・・・引きちぎってしまいました。これではお店は目立ちません。その後いつだったか・・・また目立つようになってましたけど。これはいまだに持ってます。
 その2。居酒屋の看板で、周りに黄色い電球がいっぱいついてる派手なやつ。この電球は横のすきまから手を入れて回せば取れるんですねぇ・・・しかもなくなると自動的に補給されます。何回でもOK・・・私の趣味でした。これもいまだに数個持ってます。
 その3。居酒屋の灰皿とかはよく盗まれますね。これじゃ普通です。つまらん・・・私はジョッキでした。かばんに入れてお持ち帰りです。
 その4。理科大ジャズ研の先輩の苅田さんと鈴木さんと私の3人で一緒に早朝地下鉄に乗ったときのことです。早朝だから乗客はほとんどいません。ドアの上に駅名がずらっと書いてある案内がありますよね、厚紙でできてるやつ。あれを先輩たちが、
    「飾りにいいじゃん。」
引きちぎります。「飾れよ」って私へ。
    「東西線駅名案内」
私の部屋のポスターになりました。おお、こんなポスターはめったにない。
    「なかなかいいじゃん。」
私も私です。後日、私1人で早朝地下鉄に乗ったときのこと、
    「今なら大丈夫!」
「有楽町線駅名案内」をポスターにしました。
 他にもあったかもしれません。どうしようもないですね、じみたってやつは。

 この日も理科大ジャズ研で飲んでいました。もう飲み会は終わっています。解散後、店の近くにいるのは、先輩の苅田さんと角谷さん、私と同期の初田(はつた)、私の4人です。このうち先輩の角谷さんは、私と同じく大学から近くのアパートに住んでいたので帰れます。残りの先輩の苅田さんと初田はうちに泊まることになりました。
 4人で歩いています。大学の横の神楽坂通りに出ました。今日は盗みモードの日です。何か持って帰りたい・・・電柱には何かノボリのようなものがぶら下がってます。先輩はやりません。後輩に「やれ」っていうだけです。まずこれを初田が失敬・・・。同じように別の電柱には「神楽坂商店街火災予防運動」とか書いてある白いビニール製のノボリのようなものがぶら下がっています。これを私は失敬・・・。誰かに見つかってはいけません。丸めて、着てたジャンパーの中へ隠します。私はお腹の上にこれがあるのでちょっと腹が出っ張って見えます。ま、ちょっとあやしいぐらいだから大丈夫。神楽坂の商店街を上っていきます。店はほとんど閉まっています。途中、ある店の入り口の天井に付いている鏡を発見・・・この鏡は店員が店の中から外を見えるように設置した凸型の鏡です・・・んーん、いい感じです。これ、欲しいです。同期の初田がやることに。天井にくっついているのでそのままでは届きません。ジャンプ・・・とれません。ジャンプ・・・
    「ガチャン!!」
あーっ! なんと、割れてしまいました。これはまずい!・・・逃げます。割れた時、私以外の3人は割れた破片が飛び散った場所より坂の上、私だけが坂の下にいました。3人は坂の上へ逃げます。私も一緒に逃げたいのですが私だけ坂の下にいます。まだ破片が飛び散っています。坂の下へ逃げよう・・・ちょうどその時です。ああ、なんという「グッド」タイミングなんでしょうか。こんなこともあるんですねぇ・・・パトカーが横に止まるではないですか。
    「そんなバカな・・・」
逃げたい・・・警察官ってのは速いですね。数秒後、もう私はつかまっています。
    「誰?割ったのは?」
上へ逃げた3人ももう無駄です。戻ってきました。誰が割ったか?・・・これは本当は全員の責任です。でも割ったのは確かに同期の初田です。仕方なく初田が、
    「すいません、私です。」
ああ、終わりです。もし私がやっていたら私がつかまってたはずです。運が悪いというか・・・かわいそうに。後から先輩2人に、
    「おまえがちゃんと逃げてたら大丈夫だったんだよ。」
    「こっちは酒飲んでるんだから逃げ足も速ぇーんだから。」
あのですね、割れた場所と私の位置からいってそれは無理な話です。いや、逃げたってだめですよ。割れて10秒も経たないのにつかまっちゃったんだから。
 初田はパトカーに乗せられ、警察官たちから質問攻めです。しばらくたってから警察官の1人が私たち3人に言いました。
    「今から牛込警察署に行きます。誰か保護者としてもう1人付いて来てください。」
なんだ保護者ってのは? まあただの付き添い人ってとこだろう。残っているのは先輩2人と私。しかも私の住んでいたところは牛込警察署の近く。
    「じみた、行けよ。」
まあいいや、保護者なら・・・ま、まっ、まずい! 思い出した! 腹の中に、
    「神楽坂商店街火災予防運動」
が・・・ああ、かばんの中に入れときゃよかった。これは非常にマズい。保護者っていったってこれから警察署に行くんだからなぁ。もし途中で「あなたも何かやってないでしょうね?」で身体検査とかなったら・・・んーん、これはなんとしてでもバレんようにせんと。もし途中でバレたら、
    保護者→犯罪者
ってことは、
    とってもいい人→極悪人
いやぢゃ、こんなの。
 乗りました。犯人はもちろん後ろで警察官2人に挟まれてます。私は助手席です。しかしパトカーってのは・・・なんであんなに快適なんでしょうか。内装は黒で統一、とても落ち着いて見えます。走ってもとても静かです。乗り心地も最高です。それにパトカーって改造車でしょ。他の車を捕まえるんでスピードは何キロだって出せる。きっと気持ちいいんだろうなあ。座り心地もとてもよい。イスも改造してるんでしょうか。いや〜、よく出来てますわ。あれじゃ普通車は勝てっこありません。
 牛込警察署に着きました。「火災予防運動」を途中で落っことしたらアウトです。気をつけて警察署の中へ入ります。やはり私は別にたいしたことはありませんでした。状況を聞かれただけでした。そんなことより「火災予防運動」のほうが気になります。早く解放されたい。私は解放さえされればセーフです。初田はまだ解放されません。調書をとられているんでしょうか。やけに時間が長いです。
 初田がやっと解放です。・・・まあ器物破損とはいえ、学生がやったちょっとした「おふざけ」です。この日は警察官の、
    「今後は気をつけてな。」
で終わりです。私は警察署から出さえすればOK・・・セーフでした。解放されてから、腹の中から「火災予防運動」を取り出して、初田に見せます。
    「おまえ、よくバレなかったなあ。」
私だってドキドキもんでした。後日、初田がお店に謝りに行って一件落着しました。

楽器置き場からいくつか楽器が盗まれる
1985/05 / 19歳 / 大学2年目
 あるんですねえ、こういうことが。どこのどいつでしょうか。ある日楽器がいくつかなくなってるではありませんか。いくら楽器に鍵をかけたり楽器置き場のドアに鍵をかけたりしてもダメな時はダメなんですね。古い話なんで誰の楽器が盗まれたかよく覚えてませんが、1つ下の後輩の$子が部室で泣いてたのはよく覚えてます。新歓コンパでも$子が途中で泣きだしたのを覚えています。かわいそうに。ただ彼女の場合は確か家財保険に入ってて保険金が降りたような覚えがあります。
 まったくどうしようもないですね。楽器を学校に置いている人は家財保険に入ってたほうがいいですよ。

理科大ジャズ研の新歓コンパ
 <これぐらいやったっていいでしょう>
1985/06/01(土) / 19歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研の新歓コンパです。前年度、もれなくつぶれた1年生たちは、今は2年生、今度はつぶす側です。しかも「現場検証」する警官役まで出来ます。これは楽しいでぇ〜。
 ただ、ちょっと複雑なのは・・・私の同期に、ギターの関塚健太郎という人がいるんですが、彼、入部したのは前年度の秋のコンサート前。したがって前年の新歓コンパはやっておりません。彼はこの年ジャズ研ではもちろん2年生ですが、この新歓コンパの時間だけ1年生となります。

 場所は前年と変わって、神楽坂の登りきったあたりの居酒屋「鮒忠」。ここへ行きます。前年と同じように開始、そして1年生の芸の時間も開始。やっぱり2年生になると楽しいもんです。1年生の芸を鑑賞して、日本酒の一気飲みの杯数を決めて、あとは飲んでりゃいいんですから。ただ日本酒一気を1年生の女性3人にさせるのはいくらなんでも・・・まあこれはなしです。女ってのはいいな。クソッ!
 途中で1年生の$子、楽器を盗まれたのを思い出して泣き始めました。ああ、かわいそうに。いくら1年生つぶしのイベントとはいえ、この直前に楽器を盗まれていますからねえ。これはちょっとかわいそうです。これを見た先輩の苅田さんが同情してそばで「よしよし」をしています。やさしい先輩ですね・・・こうやって愛が芽生えるのね・・・このお二方、その後何年かして結婚をすることになりますが・・・まあいいんですけど。
 さて、私と同期の健太郎、やっぱり「複雑」が悪い方向に。1年生がつぶれるのは良しとしても、彼は同期ですからねえ・・・なんだかギャーギャーうるさいです。間がありません。とてもうるさいです。しかも途中で泣き始めました。ああもう・・・これはタチが悪いです。うるさい上に泣いている。健太郎、あんた実はそういう人だったの? 困ったもんぢゃのう。
 新歓コンパの終了時間です。みんなでつぶれた1年生を運びます。健太郎は相変わらずうるさいです。階段を降ろす途中、横の公衆電話の受話器をいきなり取って、
    「おい! おふくろ! オレは元気だよ!」
何を言ってるんぢゃ。
 1年生たちを近くの公園へ運びます。そこで一休みします。
 そして1年生たちを大学へ運びます。当時、ジャズ研の1年生の中に柴崎という人がいたんですが、彼、おやじさんが社長だかで、くつが途中で脱げると、
    「あーん! くつぅー! くつぅー!」
おぼっちゃま育ちしたんでしょう、あんたは。
 そして大学到着。1年生たちを3号館のモータープールへ投げ出します。現場検証開始。つぶれたモノの周りを白いチョークで枠で囲みます。そして矢印を書いて名前を書けば完成。
    「○←じみた」
・・・をっと、これは今年はありませんでしたね。あとはつぶれた1年生たちを誰かの家に持っていけば終わりです。

 私のうちは大学から歩いて10分のところです。2人収納することになりました。1人は1年生の平川。もう1人は当時ジャズ研にいた1年生の「がねこ」・・・本名は金子だが彼にしかしゃべれない変な群馬なまりのため「゛」がついた・・・この2人です。でも「がねこ」のほうは、うちから歩いて2分ぐらいのところに住んでいたから持っていくこともできたんですが、まあうちに持っていくことにしました。
 私、私と同期の初田(はつた)の2人で、平川と「がねこ」をうちへ持ってきました。平川は早速ダウン。普通です。ところが「がねこ」は・・・うるさい。まだ酔ったままです。なんかわけのわからないことを発してます。うちはアパートです。もう時間も夜遅いです。となりは別の人が住んでます。うるさい!
    「ピシッ!」
初田と2人でひっぱたきます。ダウンしてしばらく静かなんですが、また突然起きて、わけのわからんことを発する。うるさい!
    「ピシッ!」
ひっぱたきます。ダウンしてしばらく静かで、突然起きてわけわからんことを発して・・・これの繰り返しです。
 だいぶたって、ようやく寝たようです。しばらく初田と2人で話をします。「とんでもねーな、がねこは。」
 突然「がねこ」が起きます。もううるさくはないです。部屋からドアのほうへ行きます。トイレかこれは?・・・私のアパートは共同トイレでした。6畳1間で部屋のドアは1つしかなく、このドアから外に出なければトイレへは行けません・・・行きたいんなら行けばよい。ところがドアの前でうつぶせになります。ん? どうした?・・・でも彼を見ても噴射のようではない。なんだ? そばに寄ろうとした時、
    「あ、あっ、あーっ。」
なんだ? 変なやつ・・・と、ドアの前の板張りの床に何か液体が・・・そしてその液体の量が増えていき・・・そしてその液体がだんだん水たまりに・・・
    「おねしょ」
・・・コ、コッ、コラー!! おまえっちゅうやつは!! なんちゅうことを!! 噴射なら・・・これもいやだが・・・まあ仕方がないとしても、おねしょとはなんたること!・・・小便、おしっこ、オショウスイ、検尿ですよ。ったく!!
 私と初田はあまりにも意外な出来事のため、あの世に行きました。ところでここは私のうちです。初田からすれば他人の家です。まず先に初田が、今何が起こったのかに気が付き、この世に戻ってきました。私はというと・・・はて? 今、自分のうちで何が起きたのか? いったい今から何をすればいいのか? ・・・初田が私に言います。
   「おまえ、今、自分の状況がわかってないだろう。」
はい、そのとおりです・・・?!・・・!! ようやく私もこの世に戻ってきました。さてこのクソ尿どもは・・・私のアパートはオンボロです。板張りの床には隙間ができています。掃除をしようとする前に床が吸い取ってしまいました。ってことは・・・私の部屋は2階です。当然、下の人の部屋にはおしっこの雨もりが・・・知ったこっちゃありません。
 「がねこ」はドアの前でそのままダウンしてます。部屋に戻し、ダウンさせます。ん? ズボンは?・・・知らねぇ。
 しかしとんでもないやつだ。クソーッ! 何か仕返ししてやらねば。初田と2人で考えました。
    「マジックで落書きしちゃえ。」
ダウンしている「がねこ」の服をめくり、背中にあのマークを・・・ま・・・×××、ネット禁止用語です。放送禁止用語です。わかりますね。晴れのマークのちょっと派手なやつ・・・黒マジックで背中いっぱいにデカデカと「書道」してあげました。オイッ! コラッ! ありがたーく、チョーダイしろ!

 翌日、1年生の平川はもう復活しています。「がねこ」はというと・・・まだわけのわかんないことを発してます。なんやこいつは?・・・そのまま大学へ連れて行きます。3号館のモータープールを見ると「現場検証」がありますね。実に気持ちがいい。
 「がねこ」は部室でもまだわけのわかんないことを発してます。おまえはいったいいつまでそれをやるんか!
 夕方、ようやく発しなくなりました。いったいどこまでが正気でどこまでが酔ってるのか全然わからん。そして「がねこ」は帰りました。

 うちは、タレ尿やらなんやらでよごれています。ありがたいことに、この掃除をするため、1年生の平川、$子、柴崎の3人がうちへ来ることになりました。4人でうちへ来ました。掃除を始めてしばらくしすると、ドアからノックの音が聞こえます。私が出ると、立っていたのはアパートの横の家の人。私の部屋の窓のすぐそこは隣の家なのです。この人にいきなり胸ぐらを掴まれ、私だけ部屋の外の廊下へ持って行かれます。
    「昨日何やってたんだ!」
始まってしまいました。原因は「がねこ」のうるさい声だったとはいえ、この部屋の家主は私、責任は泊めた私となるわけであります。途中、
    「オレは散弾銃持ってんだ。頭ぶちぬくぞ。」
そんなのやってみろってんだ。それになんで散弾銃なんか持ってんだ? あやしいぞあんたは・・・ しばらく小言があって、その後、
    「まあ隣同士なんだから仲良くしようよな。」
散弾銃で頭ぶちぬくなんか言ってるヤツとは仲良くしたかねーよ・・・これで終わりました。部屋に戻ると、後輩3人して、
    「なに? あの人?」
そうでしょうね。そして掃除を済ませ、3人は帰りました。

 まったく・・・ほれみろ、言わんこっちゃない。つぶれるのや噴射は仕方ないとしても、あの何度ひっぱたいても出てくる異常なうるささはいったいなんぢゃ! あれさえなきゃ大丈夫だったんぢゃ。 しかもおねしょだぁ? 「がねこ」のヤツめ! クッソーッ!
    「バカヤロウ!」
と夕日に向かっ・・・向かいません。必要ありません。やっといてよかった、あのマーク・・・フフフ・・・ヤツのうちには風呂がない。銭湯なんだわさ。いまごろヤツは・・・ガーッハッハッハッハッ・・・

居酒屋「駒安」でのバイト
 <手荒れ>
 <飯田橋最後の駒安>
1985/04〜1985/06 / 19歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」は、ジャズ研の人たちで代々バイトをしているお店です。私が入部する10年以上も前からやってたそうです。私も、家が近かったのもありますし、少しばかりやることにしました。接客商売は苦手なので洗い場です。3ヶ月ぐらいでしたでしょうか、お世話になりました。

 <手荒れ>

 バイト自体はそんなにたいへんではありませんでした。しかし途中で私自身に問題が出てきました。私も予想してなかったんですが・・・
    「手荒れ」
洗い場の仕事をやってから手荒れが出る人も多いと思います。私も家での洗い物ではなんともありませんでした。バイトは週2、3日程度です。毎日ではありませんでした。それでもバイトの日は何時間も手を洗剤につけているのですからやはり肌が弱い人はだめです。それでも他に手をそんなに使わなければいいんですが・・・
    「ピアノ」
です。これは痛いです。一番ひどい時は指10本すべてひび割れが出来てました。これでピアノを弾くと、
    「ひび割れから血」
この時期とても辛かったです。
 一度手荒れになってしまうと元に戻るのは相当時間がかかります。駒安の仕事がなくなってからは家での洗い物は必ずゴム手袋をするようにして半年、やっと水ぶくれが全部なくなりました。しかしこれで治ったと思ったら大間違い。ゴム手袋をはずして洗い物をしてるとまた手荒れが出てきます。それまではそんなことはなかったはず。それがもう洗剤に触れると荒れてしまう体質になってしまったのです。この体質が元に戻るまで何年かかったことか。
 大丈夫になったのは大学を卒業してからです。

 <飯田橋最後の駒安>

 私がバイトを始めたころは駒安はどこかに移転することが決まっていました。駒安は当時は大学のそば、飯田橋の交差点の角のあたりにありました。建物は客席が1Fと2F、それに物置場で3Fがありました。
 ジャズ研の飲み会は必ず駒安で行います。ところが駒安の場所にビルが建つというのです。とても残念です。また大学の近くで開店してくれればジャズ研としてもうれしいんですけど。
 飯田橋駒安の最終日、私はバイトでした。もちろんジャズ研の人たちもたくさん飲みに来てます。私は洗い場担当だったんですけど、洗い場担当というのは洗い物だけでなく、生ビールをついだり、酎ハイを作ったり、もつ煮込を器に入れたりとかの仕事もしていました。もつ煮込は大きな鉄鍋に入ってました。直径50cmぐらいあったでしょうか。注文が来ると器に入れて出します。閉店後、残ったもつ煮込はそのまま保存して、次の日少し具を足してまた使います。これを続けます。飯田橋駒安の最終日は、もう次の日はもつ煮込は必要ありません。ジャズ研の人たちが来ています。最終日特別記念として・・・
    「鉄鍋ごと」
出しちゃいました。気持ちいいですね〜、テーブルの上にドーンとデカいもつ煮込の鉄鍋が。全部食えんのか?食えー!ってなもんです。これで飯田橋駒安の最終日が終わりました。

 駒安はしばらくのブランクののち、水道橋で再開しました。飯田橋ではありませんでした。まあでも水道橋はJR中央線で飯田橋のとなりの駅。歩いてもいける距離です。近くだからよかったですね。

じみた、「寅さん」で映画俳優になる!
 <寅さんに出演!>
1985/? / 19歳? / 大学2年目?
 ・・・うそつけ!・・・ただの観客役の1人です。ここは読み飛ばしてください。
 読み飛ばしてください。
 それでも読みたい人は・・・
 つまんないですよ・・・
 ・・・
 理科大のそばにあるジャズ喫茶「コーナー・ポケット」から、ある日、バイトの話が来ました。聞くと、その時製作中の映画「寅さんシリーズ」にライブハウスのシーンがあって、それにボーカルの丸山繁雄さんが出る、その観客役で人がほしい、ということでした。これを聞いて理科大のジャズ研の人たち10人近くでやろうということになりました。
 当日、場所は六本木のピットインです。この日の撮影には渥美清さんは来ないことになっていました。でも他の人はいますねえ、樋口可南子さんや平満さん。俳優ですわ、俳優。途中でジャズ研の連中、
    「へえ、樋口可南子ってあんなに顔小さいのか。」
なんか感心します。
 私たちは観客の役です。演奏を見て拍手するだけでいいのです。とても簡単です。そして撮影は何時間かで終わりました。
 しかし映画界ってのはバブってますねえ。ジャズ研以外に観客役として、ライブハウスが満員になるぐらいの人たちが来てましたが、途中、全員弁当が出ました。ギャラとして確か1人6千円ぐらいもらったと思います。たったほんのちょっとシーンの撮影のためにこれだけの金を使えるなんて・・・ジャズ界にも少し分けろ。
 後日、私は映画を見に行かなかったんですけど、映画を見に行った人が、
    「じみた、おまえが一番映ってるよ。」
まあなんということ。どうも撮影時に私がいた場所がよかったらしいのです。その後、ビデオを自分で見ましたが、確かに私が一番映ってるようです。まあ見たい人は見てくださいな。樋口可南子のやつです。

理科大ジャズ研の夏合宿
 <後輩、$子は強かった・・・>
 <体に止まったコガネ虫、さてどうする?>
1985/08 / 19歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研の夏合宿です。2回目です。場所は前年度と同じく、新潟県石打スキー場にある「ロッジ白道」です。

<後輩、$子は強かった・・・>

 後輩がいる初めての合宿です。やっと先輩たちに下っ端扱いされなくなります。こっちも後輩を自由に使えます。
 この合宿中のある夜のことです、いつものようにみんなで酒を飲みます。そして深夜、ロビーに残っているのは、私、私と同期の学(まなぶ)、1年生の$子の3人です。3人とももうすぐ寝るのでもう酒は飲んでいません。普通に会話をしていました。何の話だったか、途中で$子、
    「学(まなぶ)さんはねえ・・・」
会話は学と$子だけになります。だんだん学の態勢が悪くなっていきます。学も反論するんですが、
    「それもわかるんだけど、学さんはねえ・・・」
返されます。1人で学(まなぶ)を集中攻撃しています。止まりません。
    「だから、学さんはねえ・・・」
途中、$子がトイレへ行きます。$子がいなくなり、学は、
    「いったいなんなんだよ〜」
うん、よくわかります。それに早く寝たい。でも始まったものは仕方ない。
 トイレから戻ってきた$子、続きを始めます。
    「そう、だから、学さんはねえ・・・」
いつまでたっても1人で集中攻撃してます。しばらくして$子がまたトイレへ行きます。
    「なんなんだよ〜、$子ってのは〜」
よーくわかります。早く寝たいし。でももうどうしようもない。
 トイレから戻ってきた$子、また続きを始めます。
    「だからね、学さんはねえ・・・」
1人集中攻撃は延々続きます。
 深夜だいぶ時間がたちました。1年生のPayapaが来ました。2人の会話を聞きます。学の言い分を聞いて、
    「うんうん、よくわかる。」
$子の攻撃を聞いて、
    「うん、それもわかる。」
どちらの見方をしていいのかわかりません。相変わらず1人集中攻撃は続いています。
    「だからねえ、学さんはねえ・・・」
私と後輩のPayapaは横でただ聞いているだけです。どうしようもありません。
 結局、酒も飲まずに朝になってしまいました。みんな起きてきました。
    「そこで何やってんの?」
何をやってるどころじゃありません。徹夜で学が$子に食らわされていたのです。
 後輩の$子は先輩よりも強かった・・・。

<体に止まったコガネ虫、さてどうする?>

 最終日の前日、前年度と同様、「山田杯」です。1年生の芸の時間があります。
 1年生のアルトの田川、彼はとても酒が弱いです。ビールをコップに1杯しか飲めません。
 さて、田川の芸の時間です。みんなの前に立ちました。突っ立ってます。立ってるだけです。コップ半分のビールしか飲んでないのにもう酔っぱらっているようです。ぼーっと立ってます。するとそこへ、
    「ブーン」
コガネ虫が飛んできました。
    「パタッ。」
お見事です。コガネ虫が田川の体に止まってしまいました。突っ立ってた彼は何かが体に止まったのはわかったようです。コガネ虫を手にとりました。見ます。それをはらいのけようと見えた、その時です。
    「パクッ!」
ああ!口の中へ!・・・食っちまいました。もちろんみんな大爆笑・・・もう用意してた芸なんかどうでもいいです。最高の芸です。

私の名前は「クポキョン・キョロタ」
1985/10? / 20歳 / 大学2年目
 私は1年生で早くも留年してしまいました。それも必須科目中、単位を落としたのは外国語だけです。この年は外国語をとらなけれななりません。
 しかし英語は難しい。それに今度落としたらたいへんです。また外国語しかないから暇です。どうせ暇なら・・・
    「他の外国語も全部講義に出てみましょう。」
というわけで講義にあった、ドイツ語、フランス語、ロシア語を全部受けることにしました。ドイツ語は前年度も受けているから知っている。フランス語ってのもドイツ語のようなもんだろう。でもロシア語ってのは・・・NHK教育テレビのロシア語講座を見るとなんか文字が変。どんな言葉なんだろう・・・。
 ロシア語の教科書を買います。見てみます。まずは「ABCDE・・・」です。
    「АБВГД・・・」
読めません。
    「И、Я」
反対ぢゃ。
    「Ж、Л、Ч、Ю」
地図記号かこれは?・・・どうしようもないのでやめます。
 第1回目の講義です。まずアルファベットを習います。そしてロシア文字で自分の名前を書くことになりました。一生懸命変換します。
    H Х                 К
    I И У
    R Р Б
    O О О
    S С Т
    I И А
できました。
    「ХИРОСИ КУБОТА」
なんぢゃこれは? これがわし?
 理科大ジャズ研の人たちにも、私がロシア語の講義を受けていることを言いました。理科大でロシア語を受講する人はあまりいません。講義の時間枠も学部全体で1つしかありません。
 ある日、部室でジャズ研の何人かで話をしています。
    「ふ〜ん、ロシア語なんかとってるんだ。」
    「で、ロシア語ってどんなの?」
私が部誌に書きます。
    「これ、私の名前。」
    「ХИРОСИ КУБОТА」
これを見た私の同期のEve、
    「・・・」
    「クポキョン・キョロタ!」
正解です!そう、私はジャズ関係者の間では「じみた」、他では「久保田浩」を名乗ってますが、戸籍上の名前は、
    「クポキョン・キョロタ」
なのです。よくわかったなあ・・・。

居酒屋「駒安」の分店、もんじゃ焼き屋の手伝い
1985/10? / 20歳? / 大学2年目
 飯田橋にあった理科大ジャズ研御用達の居酒屋「駒安」はこの年の6月に移転のため一旦閉店しました。
その後駒安は水道橋へ移転しましたが、もともとこのお店をやっていた従業員たちのほうは別のお店を開くことになりました。
 場所は、神楽坂通りを上って大久保通りとの交差点を左に曲がってすぐのところの2階。理科大からだと歩いて5、6分ぐらいのところです。ここに麻雀屋をオープンしましたが、あまり客が入らずすぐ閉店。そしてもんじゃ焼き屋を開くことになりました。私のうちはその場所からだと歩いて5分ぐらいのところです。そこで、オープンする前に、もんじゃ焼き屋の店長となる人に、
    「大学の帰りにでも寄って、手伝ってくれよ。」
バイトではありませんでした。まあでもこの年は留年中で外国語しかないし暇だからいいや、ということで手伝うことにしました。
 一番たいへんだったのは新品の鉄板焼きでしたかね。新品の鉄板をちゃんと使えるようにするため、大量のキャベツを何回も何回も焼きました。
 私は、もんじゃ焼きはこのお店で試食するまでは食べたことがありませんでした。オープンする前にここでもんじゃ焼きをたくさん食べさせていただきました。作り方も教えてもらいました。
 オープンしてからも少しのあいだ手伝いに行きました。客も少しずつ増えていきました。

理科大ジャズ研のコンサート
1985/11/03(日) / 20歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研のコンサートです。2回目です。会場は前年に続き、渋谷のエピキュラスです。
 バンド名とメンバーと演奏曲目は、

           <じみたU>
     メンバー 曲目
    じみた(p)  Land Of The Lonely (McCoy Tyner)
    苅田邦久(ts)  Song For Hope (高瀬アキ)
    初田哲也(eb)  Little Mayu (板橋文夫)
    蓑下史(ds)  Love Samba (McCoy Tyner)

 このときに演奏した曲はなぜだかよく覚えてます。私がマッコイフリークだった頃です。
 「Land Of The Lonely」はマッコイの「トライデント」というアルバムに入っている曲です。3拍子のミドルテンポの曲でモードの曲です。曲の感じは曲名のとおりです。「トライデント」はロン・カーターとエルビン・ジョーンズとのトリオです。
 「Song For Hope」はピアノの高瀬アキさんの曲で、ドラムの蓑下さんがバンドに持ってきました。ボサノバか8ビートのような感じで、テーマは8小節しかなく、コードは2つしかなく、2つのコードが1小節ずつ変わる、これまたモードの曲です。希望への歌って感じがします。
 「Little Mayu」は板さんのオリジナルです。スローの8ビートの曲です。板さんに初めての子どもが出来てその「まゆ」ちゃんのために曲を作ったそうです。暖かい感じのする曲です。
 最後の「Love Samba」はまたマッコイのオリジナルです。かなりテンポの速いサンバです。またまたこれもモードの曲です。
 というわけでいわゆる4ビートの曲やスタンダードらしきものは1つもありませんでした。

東女の学祭に出演「インスタントラーメン」
1985/11/17(日) / 20歳 / 大学2年目
 東京女子大学の学祭にジャズ研4人でバンドを組み、出演しました。メンバーは、望月泰孝(key)、じみた(p)、浅田聡(b)、蓑下史(ds)、でした。ラムゼイ・ルイスのフュージョンの曲で「Lakeshore Cowboy」「Expansion」やスティービー・ワンダーの「Isn't She Lovely?」などを演奏しました。行くとなぜか「インスタントラーメン」というバンド名でした。即席バンドという意味だったんでしょうか。
 このとき確か望月さんが本番に遅刻したような・・・しかも自分の大学の学祭ならまだしも「女子大」で遅刻なんて・・・でも、望月さん<5年生>、浅田さん<4年生>、蓑下さん<3年生>、じみた<2年生>、ですからね。文句は言いません。お好きなように(^^)。

理大祭「あけみ」
 <東工大レギュラーバンド来る>
1985/11/21(木)〜1985/11/24(日) / 20歳 / 大学2年目
 理科大の学祭、理大祭「あけみ」です。2回目です。
 私のバンドはコンサートの時と同じです。バンド名とメンバーは、

     <じみたU>
    苅田邦久(ts)
    じみた(p)
    初田哲也(eb)
    蓑下史(ds)

 この年流行った「We Are The World」などを演奏しました。

 <東工大レギュラーバンド来る>

 この理大祭期間中のある日、東京工業大学のレギュラーバンドが理科大の学祭で演奏しました。メンバーは、

    八木敬之さん (ts) 早稲田ダンモ
    高木宏真さん (p) 青山ジャズ研
    小野さん (b) 東大ジャズ研
    西尾研一さん (ds) 東工大ジャズ研

東工大はドラムの西尾さんだけでした。きっと西尾さんが都内のジャズ研から一番うまいのを引っ張ってきたんでしょう。
 とにかく演奏はすごかったです。まったくもってプロの演奏でした。1曲目にソニー・ロリンズのDoxyを演奏したんですが、それを見ていた理科大ジャズ研の先輩が、最初のテーマを演奏してる途中で、
    「なんだよ! ありゃあアマじゃねえよ!」
ぶったまげてました。それほど強烈な演奏でした。
 ドラムの西尾さんは、トニー・ウィリアムスそのものでした。まったく・・・なんでそういうことになるんでしょう。
 小野さん以外はのちに知り合いになれました。
 ピアノの高木さんは、季刊雑誌「ジャズ批評」の編集をされていますので、知ってる人も多いんじゃないでしょうか。

アルトの井野川耕治さん亡くなる
198? / 2?歳 / 大学?年目
 日付は覚えていません。この年に亡くなったのかどうかも覚えていません。でもこの年の理大祭にいらっしゃって、とてもすばらしい演奏を披露したことには間違いありません。理大祭で私も1曲、競演させていただきました。
 このとき何歳だったでしょうか。理科大ジャズ研のOBの井口さんと同じぐらいだったと思います。早すぎます。この方、おそらくそんなに有名ではありません。いわゆる隠れ名プレイヤーです。ナベサダが吹いてるあの演奏は実は井野川さんが吹いてる・・・という話も聞きました。
 井野川さんが住んでいたアパートは、この当時ジャズ研にいた私の1年後輩のテナーの金子という人が住んでいたアパートと同じアパートでした。このアパートは私のうちから歩いて1分のところでした。テナーの金子はそういうこともあって井野川さんと親しくしていたようです。
 亡くなった理由を聞くと、これは本当かどうか知りませんが、酒を飲んで酔っぱらって吐いてしまい、その吐いたものが喉につまって窒息死、ということでした。なんというつまらないことで・・・まあミュージシャンらしいといえばそうかもしれませんけど。井野川さんからすれば、大好きな酒で酔って、わからないうちに逝ってしまったんでしょう。
 私がたった一度だけ生で聴いたあの名プレーは、もう二度と聴くことができません。残念です。

理科大ジャズ研外で、D年養成バンド開始・・・セントラル・プラザのスタジオ
1985/11/30(土) / 20歳 / 大学2年目
 「D年養成バンド」なるものをジャズ研のバンドとは別に組みました。またそんなおおげさなものを・・・お手軽に使える後輩と一緒にやろうということです。ピアノトリオです。他のメンバーはD年ですから2年生です。後輩の、平川泰(b)、大西〈Roa子〉里実(ds)です。
 理科大のそばに、20階建てぐらいのセントラル・プラザという建物があります。センプラと呼んでいました。ここにタダで借りられる公営のスタジオがあります。スタジオが出来た頃、ジャズ研でもよく使っていました。このバンドはこのスタジオがメインでした。半年ぐらい続いたと思います。
 そのうちスタジオの環境が悪くなりました。タダですから高校生のロックバンドとかも使います。ひどい時はドラムに穴が空いてました。そのうちジャズ研では使わなくなりました。

ライブ鑑賞2日連続・・・板さんにハマってしまう
 <1日目・・・板橋文夫セッション at 新宿「ピットイン」>
 <2日目・・・板橋文夫クインテット at 新宿「ピットイン」>
1985/12/14(土)、1985/12/15(日) / 20歳 / 大学2年目
 これより1年前、新宿ピットインで板さんの姿にショックを受けた私は、しばらくライブハウスには行きませんでした。そして、あの恐かった板さんは何をやっているのか・・・恐る恐る行ってみました。

 <1日目・・・板橋文夫セッション at 新宿「ピットイン」>

 板橋文夫(p)、大友義雄(as)、榎本秀一(ts)、向井滋春(tb)、川端民生(b)、古沢良治郎(ds)

 この日、会場前に行くと、すでに列が出来ていました。開演少し前には超満員でした。へえ、人気あるのね。知らなかった・・・。
 3管のセッションバンドでした。恐る恐る見に行った板さんの姿は・・・やっぱり1年前と何も変わっていません。相変わらずです。恐いです。まあ1度見てたからショックはそれほどありませんでしたが、やはりライブが終わってからまったく言葉が出ませんでした。
 まず1曲演奏し、その後メンバー紹介をしました。初めて板さんの声を聞きます。・・・これもなんだか・・・あのいかにも不器用って感じで、「あー、どーぼありがとございばす。ベンバーしょうかいしばす。トロムボーン、ぶかいしげはる・・・」こうしか聞こえなかった。その後は挨拶しかせず、この日は曲名は1曲も紹介しませんでした。はあー、やっぱりこういう人なのね・・・。
 でもなんだかやってることはとてもいい。なんであんなに真剣なんでしょうね。なんかこの時とても感動してしまいました。特に板さんのオリジナルのいかにも日本人って感じの曲がいいんです。この時は、板さんのオリジナル・・・板さんが曲紹介ブッチだったのでこの時は曲名がわかりませんでした。後でCDを買って判明した・・・「I'm Gone」「Last Summer」「Mina」などをやっていました。なんか田舎くさい感じがとてもいいんです。板さんは栃木県出身、私は北九州の田舎出身。なんか通じるものがあるんですかねえ。私は後に板さんのソロピアノの「渡瀬」を買いました。渡瀬川ですね。田舎に流れている川って感じがとても好きです。
 このライブで私は板さんにハマりかけました。

 <2日目・・・板橋文夫クインテット at 新宿「ピットイン」>

 板橋文夫(p)、梅津和時(as, bcl)、廣木光一(g)、吉野弘志(b)、小山彰太(ds)

 この日も、ライブハウスは超満員でした。
 昨日とは違って1管のクインテットでした。
 1曲目はソロピアノでした。昨日も演奏していたオリジナルの「I'm Gone」です。ソロでもやはり途中、ピアノがブッコわれそうになりますが・・・無事でした。私はもうこの時点で何も言葉は出ません。やっぱり弾く姿は恐い。
 1曲目が終わると他のメンバーたちが控え室から出て来ました。私は板さん以外のメンバーは初めて見ます。アルトの梅津さんも初めてです。名前はどっかで聞いたことがある。そして梅津さんがステージへ上がりました。
    「ピッカピッカの40年生。」
めでたい! ピカピカです。
    「なんぢゃこのハゲのおっさんは?」
・・・失礼。でも正しいですよね? なんでこうミュージシャンって変な人が多いんでしょう? まあいいんですけど。
 メンバー全員での最初の曲は・・・もちろんこの日も曲紹介ブッチのため、後で買ったCDで曲名が判明した・・・「8848」です。この曲、たぶん曲の構成が、8−8−4−8小節になってるからだと思うんですが・・・安易ぢゃのう・・・日本民謡がジャズになったような曲です。いかにも日本って感じです。まずこの曲で梅津さんが爆発しました。
    「ハゲ爆発!」
やめんか!・・・小さな体なのにすごい音してるんですね。鳴り響いてました。高い音はいくらでも出る。低い音も・・・アルトは実音でCの#までしか出ないんですが、あのアサガオ部分をひざで「カパッ」って閉じてCを出してるじゃありませんか。はあ〜、そういうワザがあったんですね。ちなみにバスクラリネットも吹いてましたが、まあなんと高音はアルトと同じくらいの高さの音まで出してました。はあ〜、バスクラリネットってそういう高い音出るんですね。見かけは、
    「変なおぢさん」
でしたが、演奏はとてもよかったです。私はこういうバリバリ吹くタイプって好きです。
 昨日も演奏していた「Mina」もやりました。スローの8ビートの曲です。「いとしのエリー」のような感じの曲です。とても暖かい感じがする曲です。この曲で梅津さんも板さんも爆発していました。あとから知ったんですが、板さんに子供ができてその名前が「ミナ」だとか・・・そういう曲だったんですね。なんだか感動しまくりました。
 このライブで私は板さんにハマってしまいました。

理科大ジャズ研外のバンド、STAMNのパーティ
1985/12/21(土) / 20歳 / 大学2年目
 先輩が参加していた STAMN というバンドのパーティに参加しました。参加したメンバーは多数いました。その中に次の人たちがいました。というかこれが STAMN のオリジナルメンバーだったんでしょうか?

    Bien(vo) 外部
    水無瀬実(ts) 理科大ジャズ研先輩
    重松英子(p) 外部
    戸井正彦(b) 理科大ジャズ研先輩
    西川亨(ds) 外部

 ドラムの西川亨さんは、この後私はバンドで長い間お世話になります。
 理科大ジャズ研先輩の戸井さんと外部のピアノの重松英子さんはのちに結婚しました。
 理科大ジャズ研の先輩、水無瀬さんは、私が入部した時、うちから歩いて5分かからないぐらいのところのアパートに住んでいて、私が入部した次の日、うちに泊まりに来た5人の中の1人でした。私が入部した時はもう理科大ではバンドをやっていませんでした。学年は・・・6年生でした。私の5つ上の先輩です。しかも確か2浪ぐらいしてたはずだから・・・理科大ジャズ研の現役の先輩とはいっても私より年は相当上です。また大学の学科も私と同じでした。そういうこともありとてもかわいがってもらえました。私が入部してから約2年、私と水無瀬さんは引っ越しをしなかったので近所のままでした。とても面倒見のよい先輩で、私生活ではたいへんお世話になりました。私が東京で1人暮らしをやっていけたのは水無瀬さんのおかげといってもいいぐらいです。
 ボーカルの Bien さんは、水無瀬さんが住んでたアパートで水無瀬さんの隣に住んでいました。だからこういうバンドがあったんでしょうね。ちなみに外人ではありません。日本人です。漢字では「美園」と書きます。私も家が近かったのもあり、Bien さんとも仲良くさせていただきました。

仕事をするはずだったお店
1985/12〜1986/01 / 20歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研のある先輩からある人を紹介されました。その先輩に聞くと、「渋谷に新しくお店を出す人がいて、演奏をする人がほしいみたいだから会ってみる?」ということでした。まあ一応会ってみようかということで会ってみることにしました。そしてその店の経営者を紹介されました。
 オープン前の店へ行ってみると、クラブのような店でまだ楽器はなく、「BGMでちょっとだけ演奏してほしい。楽器はエレクトーンでいい。」ということでした。私はこの時はまだピアノを始めて1年しかたってなく、ソロピアノはほとんどできませんでした。エレクトーンなら1人でも大丈夫です。エレクトーンは安い価格の機種でもいいことを伝えました。だいたいの価格を伝えました。その経営者もそれでOKしました。
 後日です。店へ行くとその経営者に「エレクトーンじゃなくてエレピじゃだめ?」と言われました。理由を聞くと、
    「エレクトーンは高いから」
この前会ったとき価格言ったでしょうが。あんたそれでOKしたでしょうが・・・そうすると「最初はエレピでやってもらって、そのうち客が入って繁盛してきたらエレクトーンを買うから。お願い。」と言われました。ピアノではありません。エレピです。しかもそのエレピも何万もしない、
    「安いのにしてくれる? お願い。」
・・・まあそんなに頼むんならしょうがない。それでOKしました。
 後日です。お店で軽く飲むことになりました。その経営者は私がジャズ屋ってことを知ってますが、飲み始めるとカラオケを開始、まず自分で歌謡曲を何曲か歌います。そして「君も1曲どう?」・・・なんかちょっと雰囲気が違うって感じ。まあ別にいいです。私は演奏の仕事ができればいいんです。この日、お店の店長になる人を紹介されました。そして店長から演奏をいつから始めるかを後日電話連絡してもらうことになりました。
 後日です。店長から電話がかかってきました。出ると「経営者から『待った』がかかっているんでもう少し待ってください。」・・・おそらくはまた金です。そのエレピを買う金も渋ったんでしょう。
 後日です。店長から電話です。同じです。
    「まだ待ったがかかっているんで・・・」
 後日です。こんどは私から電話します。
    「まだ待ったがかかっているんで・・・」
フザけんな。もう二度と電話せん・・・向こうからもかかってきませんでした。
 結局、
    「エレクトーンを購入しますので、演奏をお願いします。」
    「・・・高い、やーめた。」
    「エレピを購入しますので、演奏をお願いします。」
    「・・・高い、やーめた。」
まったく自分勝手な理由です。私はこれに振り回されてただけです。しばらくは、渋谷のこのお店の付近を通ると気分が悪くなりました。

理科大ジャズ研先輩、戸井バンド開始
1986/02/04(土) / 20歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研で私の3つ上の先輩、ベースの戸井さんがジャズ研とは別に組んだバンドにメンバーとして参加しました。バンドメンバーは谷川淳(ts)、じみた(p)、戸井正彦(b)、西川亨(ds)の4人です。テナーの谷川さんは同じく理科大のジャズ研の先輩で戸井さんと同期、ドラムの西川さんは外部の人です。このバンドは特にどこかで演奏したわけではありませんが、3年近く続きました。

炊飯器すき焼き
1986/02? / 20歳 / 大学2年目
 寒い時期です。すき焼きのシーズンです。貧乏学生といったって、たまにはすき焼きを食べたいものです。
 理科大ジャズ研の先輩、水無瀬さんのアパートは私のうちから歩いて5分ぐらいのところです。水無瀬さんからある日電話がかかってきました。
    「今日、暇?」
    「よし、これから、じみたんちに行くからすき焼きでもしようぜ。」
そう言われても私のうちにはすきやきの道具はありません。焼き肉プレートのようなものもありません。
    「どうにかなるよ。」
電話で話すより会ったほうが早い。直後、肉を持ってうちに登場。
    「すきやき食いてーな。」
私のアパートの部屋は6畳1間で台所は1畳もない超狭いところ。自炊道具だってそんなにありません。水無瀬さんの家はといえば、4畳半1間のアパート。私と同じようなもんです。肉はあれど道具がない。焼いて食ったほうが早い。でも2人して「部屋で」すき焼きが食べたかったんでしょうね。2人で考えます。そして水無瀬さん、
    「炊飯器でできんじゃねーか?」
何? 炊飯器で? まあ肉が加熱されればできるかもしれないけど、炊飯器ってのはどうかなぁ?・・・炊飯器はうちにあります。でもうちの炊飯器は世の中で売っている炊飯器で一番小さいやつ、フタがちゃんと閉まんないやつ。これではちょっと無理。
 理科大ジャズ研で1つ下の後輩のRoa子は、うちから歩いて1分のところのアパートに住んでいました。
    「Roa子ならもう少し大きい炊飯器ぐらい持ってんじゃねーか?」
早速、呼び出しです。Roa子の家へ行きます。
    「今からすき焼きやるから炊飯器持ってうちに来なよ。」
なんですき焼きをやるのに炊飯器なんでしょう。
    「えーっ? うちの炊飯器ですき焼きをやるんですかぁ?」
炊飯器を持ってうちへ来ます。3人ともちょっと心配です。
    「ちゃんとできんのかなあ?」
まず醤油と砂糖を炊飯器に少しだけ入れます。そして肉を3切れ入れます。フタを閉め、スイッチを「炊く」にします。しばらく待ちます。そしてフタを開けてみます。
    「できてる!」
肉を取り出し、食べます。
    「うめーじゃん!」
また肉を3切れ入れ、フタを閉めます。しばらくしてフタを開けます。できてます。肉を取って食べます。以下同文・・・。
 貧乏学生が考えた、すき焼きの方法です。
 後日、この3人で、うちでもう一度炊飯器すき焼きをやりました。

理科大ジャズ研でCPを買う
1986/03 / 20歳 / 大学2年目
 私が理科大のジャズ研に入部した時は、生ピアノはありませんでした。それに普通にエレピといわれてるものもなく、フェンダーローズだけでした。生ピアノ系の音が出るものは何もありませんでした。そこでジャズ研のピアノの人たちでCPを買うことにしました。ヤマハのCPは弦が張ってあるエレクトリック・ピアノです。ジャズ研で買ったのはアップライト型のCPです。これでようやく生ピアノ系の音が出る鍵盤がジャズ研で使えるようになりました。この後の春合宿から使いました。

雪で帰れなくなった理科大ジャズ研の春合宿
1986/03/16(日)〜1986/03/23(日)→1986/03/24(月) / 20歳 / 大学2年目
 理科大ジャズ研の夏合宿です。2回目です。場所は前年と同じく山梨県の西湖の湖畔にある民宿「東村」です。

 最終日前日、打ち上げの日です。セッションを始めます。途中で雪が降り出しました。かなり降ってます。深夜、もうだいぶ積もっています。明日は帰る日です。みんなちょっと心配です。
 最終日です。みごとです。積雪60cm。しかもまだ降っています。早く出発しなければたいへんです。朝食をすませ、みんなでいそいで片づけます。理科大ジャズ研の人の1台の車がガソリンを入れるため、西湖の反対側にあるガソリンスタンドへ行きました。ところが1時間たっても帰ってきません。おそらく途中で動けなくなったんでしょう。みんな心配し始めました。それからだいぶたってから帰ってきました。こんな状態で帰れるのか?
 誰かが高速道路情報を電話で聞きます。
    「中央高速、雪のため通行止めだって。」
ガーン・・・でも下の国道なら帰れる。しばらくして、また誰かが高速道路情報を電話で聞きます。
    「国道20号も、通行止めだって。」
ガ・ガーン・・・でも南の御殿場のほうへ行けば大丈夫かも・・・もう昼食の時間です。まだ身動きがとれません。
 昼食が終わってしばらくしてからです。、
    「河口湖付近、全部だめそうだ。」
ガ・ガ・ガーン・・・もうだめです。帰れません。どうしようもありません。東村で1泊することになりました。
 民宿「東村」の人たちもこの事情では・・・この日の宿泊料や食事代はすべて無料にしてくれました。感謝です。
 翌日、無事帰れました。
 ちなみに、この日は私のアパートの引越し予定日だったんですけど、翌日に延びてしまいました。

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